日本の裏社会~野球賭博

プロ野球巨人の福田聡志投手(32)と笠原将生投手(24)、松本竜也投手の3名が野球賭博をしていた事が判明した。福田、笠原の両投手は麻雀やバカラでも賭けを行っていた事がわかった。

日本野球機構(NPB)の調査委員会は笠原投手が福田投手に紹介した自称税理士法人勤務の知人を野球賭博常習者と認定した。A氏と呼ぶ事にする。


福田投手

A氏仲介のもと今年8月から9月までにプロ野球の約10試合で野球賭博を行い、5月から9月までに高校野球やアメリカ大リーグの試合にも金銭を賭けていた。

笠原投手

A氏との間に昨年4月から10月までにプロ野球の約10試合に賭け、別の野球賭博常習者である飲食店経営者(B氏とする=野球賭博常習者と認定)の仲介で10~20試合に賭けていた。同年4月から8月には高校野球にも賭けていた。


松本投手

この飲食店経営者と昨年の6月から10月までにプロ野球の十数試合に賭けていた。

NBPの調査委員長は「現段階では多球団の選手の関与はなく、八百長行為も認められていない」とし「反社会的勢力との関係も含めて、引き続き調査し、1か月以内に最終報告を行う」という事になった。

しかし巨人はこの賭博に関係したのではないかという疑いがある選手としてまだ次の選手を抱えている。宮國椋丞(巨人軍投手)、江柄子裕樹(巨人軍投手)河野元貴(巨人軍捕手)だ。


この問題はたまたま起きた事件ではない。野球界の歴史をたどっていけば、「起こるべきして起こった」事件なのだ。


野球賭博は昭和40年代初期に大阪に登場した。「胴元」は暴力団が仕切り、客は大阪・ミナミの自営業者や飲食店経営者などが中心で、彼らは大相撲の関取のタニマチになっている人がけっこういた。これは野球賭博がかなり以前から行われ、そのバックに裏社会が関与し、暗躍していた事を意味している。平成22年の相撲界力士の野球賭博事件が新しい。野球界にはその土壌があるという事だ。


野球賭博は暴力団、ヤクザとの一接点に過ぎず、酒席・結婚式の宴席・麻雀・ゴルフ・慈善興業などあらゆる分野で「黒い交際」が行われている。

暴力団は隙あらば表社会の人間に食い込もうと、虎視眈々とその機会をうかがっているのだから。

野球賭博は、平成バブルに突入する頃(1986年)、胴元は約20組織あったといわれ、初めは1000万円程度の取り扱いだったが、やがて1日5000万円、1億、3億と取り扱う金額がどんどん増幅していった。1日に集まってくる客は1組織最低300人。今では携帯電話やメールなどを使って賭場が開かれ暴力団の大きな資金源になっている。

野球賭博は、プロ野球に限らず、春、夏の全国高校野球大会はその筋の稼ぎ時であり、さらに相撲やサッカーのJリーグ、ゴルフなどあらゆるスポーツが賭場の対象となっている。上記のA氏やB氏は仲介役である。その上に胴元がいる。胴元は山口組系弘道会(前身の弘田組時代に野球賭博登場)である事がわかっている。

野球賭博は、勝敗を賭けの対象としているわけだが、賭博である。胴元が試合ごとにチームの戦績に応じてハンデをつけ、それを仲介役に連絡。仲介役はそれを携帯電話やメールで客に伝えて、賭け金を預かるシステムだ。

例えば巨人対阪神の試合を対象にする場合、ハンデは「巨人から1,5」とされたとする。これは阪神に1,5のハンディがついていることを意味する。よって巨人が2点差以上で勝たないと賭博には勝った事にならないという仕組みになっている。このハンデは山口組の中のハンデ師が担当していて、試合によって異なってくる。

                                                           
上記A氏は元中日の立浪和義氏(1988年入団、2010年退団)の知人であり「弘道会の人間である」事がわかっている。

上記B氏は元巨人の越智大祐氏(2006年入団、2014年退団)と見られている。

                                                        


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日本の裏社会~山口組分裂 その理由 

山口組本家は70(~75)人あまりの直系組長を擁している。

司組長はその直系組長から月会費という名目で毎月100万円の上納金を集めている。

直系組長70(~75)として×100万円で7000万円だ。

そして山口組本部への支払いはこれだけではない。司組長はミネラルウォーターや日用品を直系組長に最低50万円の押しつけ販売を行っている。

こちらの方も直系組長70として×50万円で3500万円になる。

直系組長の事務所は不必要なほどのミネラルウォーターや日用品で埋まることになる。

暴力団対策法が施行された1992年以降の取り締まり強化や暴力団排除条例の浸透などで、毎月約100万円の「月会費」を総本部に納められず、引退・除籍に追い込まれる直系組長が増え続けているにも関わらずである。山口組の直系組長のピークは1992年であり125人もの組を抱えていた。しかしこの100万円の月会費が納められずに徐々に直系組長の数は減ってきていたのだ。5代目渡辺芳則組長の2004年秋には100人を切り、司組長になってさらに減少してきている。


このようにして集められた金の内から司組長には月々3000万円が渡っていた。年間3億6000万円。また中元や歳暮、組長の誕生日、組長の家族の誕生日、愛人の誕生日まで、直系組長は各1億円位を集めて年6億円を渡していた。現金でである。

また、司組長は山口組の友好団体(友好都市などというものではない。当然ヤクザ組織)の内、

    双愛会(千葉県市原市)  塩島正則会長  構成員200人
    共政会(広島市南区)    守屋 輯会長   構成員190人
    福博会(福岡県福岡市)  梅津明       構成員180人
    東亜会(東京都)       金海芳雄

を後見し、これら団体からも中元や歳暮の時期に現金をもらっている。結局総額年間で10億円前後を司組長個人がもらっていたとみられる。これらの収入の流れを知る立場にあったのが「絶縁」された宅見組組長、入江禎氏だ。入江氏が司組長の集金体質に対して不満を持っていたと容易に推測できる。

分裂の理由

2、跡目争いである。

現在の山口組組織では司組長のすぐ下の若頭に弘道会二代目会長の高山清司(68歳)を据えている。そして若頭補佐に弘道会三代目会長の竹内照明(55歳)を据えている。竹内照明氏については下の映像をどうぞ。 

現在の若頭の高山清司氏は恐喝罪により現在東京都府中刑務所で服役中である。そういう事で現在若頭職は竹内照明氏が代行している。若頭職を担って組長へというのが一般的な出世コースである。

ということは、司組長は次の組長は弘道会二代目会長の高山清司氏と考え、その次の組長も弘道会三代目会長の竹内照明氏と考えている。これは三代続けて弘道会出身者が山口組組長となるという計画といえる。ここで思い出して欲しい。弘道会は名古屋を母体とする組織である。

それとは違って山口組は元々神戸市で発祥して大きくなった組織である。阪神地域の直系組長達は、弘道会出身者による今後三代にもわたる組長独占は神戸の山口組を名古屋の山口組にいや山口組そのものを変質させてしまうという危惧をもってしまったのだ。さらに司組長は本部を名古屋に移す考えも持っていた。

このような司組長体制に阪神系の組長が怒らないわけがない。今までは我慢してきた。弘道会出身の組長が一代で終わるのなら。直系組長たるもの将来は組長にとの希望がある。しかし過去に置いてもこのように出身組織ががっちりと将来にわたり「自分の組織だけが良ければいい」という構想を掲げた歴史はない。


山口組は組の起こりから今日まで阪神の組長達が支えてきたのだ。将来は組長にと思っていた直系組長もいたはずだ。特に山健組はその規模からも組長になってもおかしくない存在だ。司組長は要職からも阪神系の組長をとうざけている。阪神系からしたらとんでもなくおかしなことなのだ。

組長職からも、要職からも、しめ出されていったかつてを知っている直系組長達からしたら「なめたらいかんぜよ」の状態なのだ。

こうして金に汲々とさせられ、ケンカヤクザの弘道会が要職を占める山口組に昔を知っている阪神系古参ヤクザは袂を分かつ事になった。だから神戸に新組織「神戸山口組」を作ったのだ。彼らは言っているのだ自分達が本当の山口組だと!司組長は「敵」になった。

もうやるか、やられるかの二つしかないのだ。山口組も「神戸山口組」は捨て置けない!

両組にとって、もう引くに引けない事態なのだ。対立抗争は今まさに幕を開けた!


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日本の裏社会~山口組分裂 「仁義なき戦い」序章 

国内最大の指定暴力団山口組が分裂した。皆さんも、もうご存知だろうが、山口組は組長が六代目司忍(=篠田建市)で、構成員14.000人、準構成員28.000人を擁する日本最大規模の暴力団だ。

8月27日(木)に神戸市の山口組総本部で執行部を集めた会合が開かれたが複数の幹部組長が欠席した。原因はこれまでに内在していた鬱積が破裂したものとみられている。司忍組長はこの欠席した組長に対し、「絶縁」や「破門」の処分を下し分裂騒動が勃発した。山口組が制裁した直系組長は13人になった。処分された組は次のとおり。

  絶 縁

  山健組(神戸市中央区)  井上邦男    構成員 4000人 準構成員 7000人 山口組最大派閥
  宅見組(大阪市)       入江禎           1800人
  俠友会(淡路市)       寺岡修            300人
  正木組(福井県敦賀市)   正木年男(パク・ニョンナム)  180人
  池田組(岡山市)       池田孝志           300人

  破 門

  毛利組(大阪府吹田市)   毛利善長
  松下組(神戸市中央区)  岡本久男
  黒誠会(大阪市)       剣政和      構成員  500人
  奥浦組(大阪府東大阪市) 奥浦清司
  雄成会(京都市)       高橋久雄
  西脇組(神戸市西区)    宮下和美    構成員  220人
  大志会(熊本市)       奈須幸則
  真鍋組(尼崎市)       池田幸治


離脱派は9月5日初会合を開いた。この初会合には指定暴力団住吉会(総本部・東京港区)の最高幹部で二次団体の「幸平一家」のトップの加藤英幸総長が顔を出している。映像は次のものをご覧ください。

この日の会合では山健組の井上邦男組長がトップとなる新団体「神戸山口組」の結成協議が行われた。住吉会の加藤英幸総長はこの協議に際して表向き「立会人」として参加したとされているが、「神戸山口組」と住吉会が共闘の体制をとるのだと思われる。


現在の山口組6代目司忍組長の平成17年の継承式の映像を下に入れました。「絶縁」や「破門」された組長がはっきり映っていますので顔をご覧ください。何気なく北島三郎が歌っているところに関係が感じられる。また島田紳助が関係していた若頭補佐、極真連合会会長の橋本弘文(カン・ホンムン)も映っています。

では何故分裂が起こったのか?

大きく分けて2つの理由があると思われる。

1、司忍(=篠田建市)組長の金集め

直系組長は月会費を100万円本部に収めている。にも拘らずその他、本部によるミネラルウォーターや日用品などの強制的な押しつけ販売があり直系組長は最低でも50万円は買わなければならない決まりになっていた。

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竹林はるか遠く 最後に

三人が朝鮮を旅立ったころ淑世は38度線を目指して歩いていた。森の奥深くに入っていた為方向がわからなくなっていた。下が急な崖になっている平地まで来ると、下に京城に向かって何キロも伸びている線路が光っていた。それから少し前を見ると歩いている人々が見えた。

すると突然歩いていた人々の向こう側から機関銃の銃撃が始まった。淑世は一瞬動けなくなった。それから崖の上の発砲した方に向かった。人々は罠にはまったのだ!下に見える線路がざわついていた。「みんな死んだ!」朝鮮語を話している声が上まで届いた。「所持品を調べろ。貴重品は全部取れ」と違う声がした。「裸にしろ。金歯をしていたら、歯を引き抜け」彼らは共産主義の兵隊で崖の上に隠れ線路づたいに歩く引き揚げ者を殺し、略奪を繰り返していたのだった。

淑世は山の奥深くに逃げ込んだ。森から離れないように一日中歩いていた。いつしか月日がわからなくなっていた。ある朝目覚めると霜が周りに厚く降りていた。雪が降り始めた。「僕はこれを乗り越え生き延びなければいけない」「母と妹たちに会いたい」「三人とも、苦労しているに違いない」「京城までたどりつかねば!」雪は吹雪に変わった。靴底はボロボロになり服は凍り、そして疲れきっていた。一寸先も見えなかった。

突然吹雪の中、木々の間から遠くにかすかな赤い明かりを見た。淑世は立ち上がった。ひどいめまいを感じ、よろめいたが引きずるように歩いた。明かりの方へ、明かりの方へと。やっとの思いで小さな農家にたどり着くと、そこで気を失い、力尽きて倒れてしまった。

一生懸命読んでくださった方には申し訳ありませんが、あらすじはこれ以上書きません。私はこの本を実際に読んでもらいたいのです。この後、淑世はどうなるのか?日本に向かった母と好と擁子はこの先どうなるのか?淑世は皆に再会できるのか?この辺の部分を私は伝えません。どうか買って読んで下さい。

あの当時朝鮮半島に住んでいた日本人がいかに敗戦という事実により朝鮮人に手のひらを返すようにいたぶられたかをあなた自身で知ってもらいたいのです。日本は1965年の日韓基本条約ですべての戦後賠償は解決しているにも拘わらず、いまだに賠償を求められています。韓国の順法意識のなさにはあきれはてます。

反日教育をしながら、経済面では日韓友好協力などが叫ばれています。

「竹島問題」

「従軍慰安婦問題」

「強制徴用問題」

「歴史の捏造問題」などなど‥

このゆすり、たかり、ヤクザ国家はなんとかできないものでしょうか。

この異常な国の一部を知るだけでも「竹林はるか遠く」は参考になると思います。また、この困難に立ち向かった川嶋家の懸命な「生」への頑張りは生きるどんな人達にも応援になると思います。是非読まれる事をお願いします。もし近くの書店にない場合はアマゾンで購入できます。

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竹林はるか遠く あらすじ 3 船出

軍服を着た三人は京城をめざして歩いていた。擁子の右耳は相変わらずズキズキ痛み、傷ついた胸は軍服に擦れた。しばらくすると日本人らしい男たちがリュックサックと包み、女たちが赤ちゃんをおぶっているのが見えた。母が話しかけここがどこかと尋ねると「遠くに見える茶色の屋根が京城駅です」と教えてくれた。遂に!

いつのまにか三人は避難民の検問所の行列についていた。検問所の警察官がこれからどこに行くのかと尋ねた。母は息子が着くまで京城に留まり戦争が終わったら羅南に戻るつもりだと話した。「戦争は終わった」と彼はいった。私達は驚きのあまり呆然としていた。「いつ?」好は聞いた。「昨日だが、君達は羅南には帰れない。今、朝鮮では、日本人は危険な状況下に置かれている。だから、北からこれほど多くの人達が避難しているのだ」「今日は何日ですか?」また好は聞いた。「8月16日だ。では長崎と広島に原子爆弾が落ちたことも聞いてないのか?」「はい」「日本は負けた」「広島も長崎も地獄そのものだ」突然母が地面に倒れた。

しばらくして母が意識を取り戻した。検問が終わり三人が出発しようとした時、警察官が擁子の怪我の手当をしてやりなさいと言った。屋根に赤十字のマークのついったテントにいた医師は擁子の耳と胸をみて「この子がどうやってここまで耐えてこられたのかわからない。ひどく化膿している」と言った。耳に細長い針金を入れて金属のかけらを抜きだした。母はこれからどうするのかと尋ねられたのでここで淑世を待つと言った。そういうことなら擁子は入院したほうがいいということになり入院する事となる。擁子には母と好が交代で付き添い、付き添わないほうが駅にいて淑世の到着を待っていた。しかし2週間たっても淑世は来なかった。

9月1日医師が母と話した。「患者は全員今月の末までにトラックで釜山(プザン)に向かいます。赤十字船が10月2日にそこから日本に出発することになっているのです。一緒に母国に戻りましょう」しかし母は淑世を待つつもりだと断った。

医師達との別れが来た。皆がひきあげてから三人は駅に戻った。「食料を探してくるわ」と好は言うと空っぽのリュックサックを持ち、ホテルのごみ箱で食べられそうなものを漁りほぼ一杯にして戻ってきた。三人が京城に来て、5週間が経ったある日、好が深刻な事態を知らせた。「私達は京城をでなければいけない。朝鮮人の男達が藪の中へ女の人達を引きずって行くのを見たし、若い女性に乱暴しているのもみたわ」好は震えていた。「女の人たちは金切り声を上げて日本語で助けを求めていたの。今からもう一度私の髪を剃ってくれる?」川で母は私達二人の頭を剃った。それから好をもっと男の子らしく見せるため、ガーゼで胸をきつく巻いた。

「明日の最終の貨物車に乗りましょう」と母は決めた。好と擁子は駅の支柱や木という木に「淑世、釜山へ」と彫った。次の日貨物車の材木の上に乗ることが出来た。三日目に、ついに列車は釜山駅に着いた。駅は満員だった。三人は港の近くの倉庫に行くように命じられた。「私は駅で息子を待たなければいけないのですが」母は朝鮮の係員に話した。「駄目だ!我々はここで独立祝賀会を開く。出て行け!」三人はのろのろと歩き倉庫に着いた。倉庫はいっぱいだった。なんとか隅に隙間をみつけて座る事が出来た。

しばらくして擁子は「お便所にいきたい」と言った。建物の隅に六つの便所があったがドアもなく男女の区別もなかった。擁子の前にいた女性が戸惑いながらズボンとパンツを下ろしてしゃがんだ。母が来て女の人の前に立ってなるべく見えないようにしてあげた。彼女は出てきて戻っていった。すると、突然、助けを求めて金切り声を上げた。振り返ると列の終わりで朝鮮人の男、4人が彼女を捕まえていた。

好のところへ戻ると好も便所へいきたいと言った。母は青白い唇を開いて「胸の包帯はきつく巻いてある?」「好、男の子がするようにするのよ」それ以来、私たちは男の子のように立小便をした。それは悲惨なものだった。しかし身の安全には代えられなかった。その日は悪夢のようだった。独立を祝いながら、酔った朝鮮人が三人の周りにきた。一人が前後にふらつきながら好に執拗にせまった。「お前は男か女か?」「男だ」と好は答えた。「女の声のようだ。触らせろ」「触ってみろ」好は言い返した。

酔った朝鮮人は大きな手を好の胸に当てた。「平らだ」男は言った。「男には興味がない」男たちの集団はさったが彼らは悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちをみつける度に外へ引きずりだした。たびたび女たちの悲鳴が響いた。

母も好もその夜眠れなかった。翌朝は擁子が食べ物探しに行くことになった。擁子はごみをつつきながら一杯になったリュックサックを頭の上に乗せ戻りはじめた。小さな小川で水を飲もうと立ち止まったとき、擁子は泣き叫ぶ声を聞いた。草むらの中で女性の上に乗った朝鮮人がいた。彼女は思いっ切り男を蹴飛ばしながら金切り声を上げていた。擁子の膝が震え始めた。出来るだけ早くその場を離れ、母と好の元へと急いだ。「これ以上ここにいることは出来ないわ」擁子が見たものを話し終えると母はそう決断した。「私たちは日本へ帰らなくちゃ」しかし、母の目は涙でいっぱいだった。「でも淑世が‥。淑世は朝鮮で一人ぼっちになってしまうわ」

一週間後、貨物船がやってきて百人が日本に行く事ができると知らされた。しかし三人は百人に入ることができなかった。百人は去ったがまた次の百人が押し寄せてきた。三人はその場から離れることができなかった。一週間後、船は戻ったが次の百人にも入れなかった。母は群集の中淑世を探し続けた。再び船が見えた。ついに三人は百番以内に入ることができた。朝鮮人の係員のきびしい検査もとおり三人は船に乗ることができた。

海が朝日の色に染まってきらめき始めた頃、船はゆっくりと埠頭を離れた。「ついにやったわ!もう脅えることはないのね」好は、ゆっくりと消えてゆく朝鮮半島をじっとみつめていた。涙が頬を伝っていた。母の顔も涙がこらえられず、ぐしょぐしょになっていた。
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竹林はるか遠く あらすじ 2  兄-淑世

母達が逃げだした時、淑世は、羅南の爆薬工場にいた。淑世の友人正一、誠、眞蔵の三人が便所に消えたちょうどその時突然共産軍が工場に入ってきた。淑世は前にあった空箱に飛び込んだ。級友の泰男が銃をとり発射した。すぐさま共産軍は反撃してきた。ダダダダダダダダ‥。泰男は倒れた。ほとんどが殺され、何人かが捕まえられた。淑世は無事だった。共産軍は捕らえた何人かと出ていった。隊長は「武器を外に出し、この建物は爆破しろ」と命じた。

淑世は何も聞こえなくなったことを確認すると、用心深く箱から出て泰男の体の上を這った。死体だらけだった。吐き気と恐怖におののきながら、便所の戸までやっとのことで行くと、頭で押し明けた。「誠?」淑世は立ち上がった。「正一、眞蔵、誠、俺だ、淑世だ」三つ目の便所の戸がわずかに開いて三人が出てきた。「奴等はここを爆破するつもりだ。一刻も早く逃げるんだ」

共産兵は捕まえた人に銃を向けながら大通りの方へ歩かせている。四人は便所の窓を押し開け、一目散に工場の壁に沿って山の方に向かって走った。それほど遠くへ行かないうちに爆発音が響いた。振り返ると工場が爆発し爆煙が上がっていた。

青年達は家に向かって歩き続けた。夜が明ける頃村外れの竹林の中に建っていた淑世の家に着いた。玄関は壊され、勝手口は開けっぱなしになっていた。共産軍に掠奪されていた。淑世はミシンの上にあった書置きに気が付いた。「息子へ。私達は出発しなければいけません。京城の駅で待っています」淑世は残っていた米や飯盒や下着や靴下、セーターをリュックサックに詰め、すぐに逃げ出したがまた戻って家族のアルバムをしっかりと腕に抱えて家を後にした。

正一の家に行くと眞蔵と正一の両親は南の方へ逃げていたが、誠の両親は殺されていた。日本の学生服ではこの町を逃げることは出来ない事がわかる淑世は家族の友人の李さんのところへ朝鮮服を借りに行く事にした。李さんは朝鮮人だが共産主義者ではない。だがいってみると李さん夫婦は殺されていた。共産軍は同胞の善人をも惨殺していた。「服を借りて、ここから逃げよう」正一が叫んだ。

青年達の歩く旅が始まった。彼らは話さなければいけないときはいつも朝鮮語を使った。共産軍に見つからないように日中は休み、夜間に歩いた。歩き始めてすでに10日がたっていた。日がたつにつれ多くの朝鮮人や日本人、女性や子供が線路を歩いているのが目立ち始めた。年老いた老人が淑世達に日本語で話しかけてきた。そしてその老人から日本が負けたという事と戦争が終わった事を知らされた。

線路を離れ茂みを探しているその時だった。「止まれ!」誰かがへたな朝鮮語で叫んだ。反対側の茂みから二人のソ連兵が銃を持って走ってきた。淑世は朝鮮共産軍の人間だと嘘を言い、日本製の美味しい煙草を差出し端川(タンチョン)の町に行けば、共産軍の本部が安い賃金で労働者を雇っているのでそこで働けば食料ぐらいはもらえるだろうという話をもらった。

端川に着くと共産軍本部で働く事にした。仕事は死体を大きなわら袋に入れて崖から端川湾に放り投げる事だった。それらは列車から投げ落とされたり、野原に置き去りにされたりして死んだ人々だった。一日の労働を終えると煮たキャベツとご飯が与えられた。ここでの仕事が終わると、給料を少し受け取り、さらに南へと歩き続けた。港町の元山(ウォンサン)に着くまで1ヶ月半かかった。もう9月の終わりになっていた。淑世はここで仲間と別れ一人京城へと向かう事にした。淑世は少なくても38°線まで行こうと決めた。一人旅を心細く感じていたがもうすぐ母や姉妹に会えるという夢を抱きながら線路を歩き続けた。

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