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妻の「離縁状」-小沢一郎とは何者か?(改訂版)

このスクープを書いたジャーナリスト松田賢弥氏はかなり前から小沢一郎を追っていた。松田氏は2005年講談社出版の『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』の中で小沢一郎の生い立ちを次のように書いている。

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小沢一郎の生い立ち

小沢一郎の父佐重喜(さえき)は1898年(明治31年)水沢の貧しい農家に生まれている。東京に出て人力車を引いたりしながら苦学し、弁護士試験に合格。これ以降佐重喜はずっと東京暮らしをしていた。1924年(大正13年)みちと結婚。みちは千葉県東葛飾郡出身で、東京の九段精華女学校を卒業していた。

佐重喜は東京市会議員などを経て、戦後には衆議院議員に転進し運輸、建設大臣などを歴任した。しかし佐重喜は湯島の料亭で毎晩のように遊びまわる放蕩三昧の日々を過ごしていた。小沢一郎が誕生したのは1942年(昭和17年)だ。

小沢一郎の上には姉が二人いた。長女はスミ子(昭和7年生)、次女は則子(昭和15年生)だ。しかし姉達の母はそれぞれちがっていた。母のみちはこの二人をすぐに養女として入籍している。

水沢に縁のない家族だったが1945年(昭和20年)の初めみちが空襲を逃れて3人の子供を連れて水沢に疎開してきた。佐重喜は東京に残ったままだったのでみちと子供3人の水沢での生活が始まった。

その後、小沢一郎は中学2年生まで水沢に住んだが、中学3年生の時には、みちと3人の子供達はまた東京に戻る事となる。その短すぎる水沢での生活の為、一郎には水沢への郷土愛は生まれなかったと思われる。

また、小沢一郎は生まれてから12歳までを母しか知らず、父の存在を意識する事がなかった事と、愛する姉が父の放蕩三昧の末に生まれた事実が一郎の人格形成に深い影響を与える事となった。

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次に小沢一郎の隠し子をもうけた女性だが、キム・スクヒョン(金淑賢)だ。キム・スクヒョン(金淑賢当時.35)とは2000年、自由党党首であった小沢衆議院議員の国際担当秘書に抜擢され、その後、7年の間、傍を守っている。当時から愛人説も盛んに出ていた。

議員会館に勤めているキムは、国際関係の専攻を生かして韓半島を含んだ国際情勢などに関し補佐する業務を主にしていた。週1回、東アジア情勢の報告をしているし、中国、アメリカを含んださまざまなプロジェクトを企画しながら進行も行っていた。

また、儀典業務は基本で小沢代表を訪ねてくる日本の政治家はもちろん、韓国など外国の名士の接客との通訳も受け持っていた。選挙期間には他の日本人秘書らと同じように全国の現場を歩き回りながら選挙支援にも積極的に出ている。まさに『全天候秘書』だった。この女性との子供が隠し子となっている。

小沢和子氏の「離縁状」の調査中、次の事がわかった。

小沢一郎が関与した西松事件関係者が次々と謎の死

09/01/21 西松建設社長を逮捕
09/01/21 元西松建設専務 死亡
09/02/24 長野知事の元秘書(西松建設事件での参考人) 死亡 。(電柱にロープを巻きつけ首吊り自殺)
09/03/01 「小沢一郎氏と秘書と、ダム工事のただならぬ関係」を追及してきた記者(吉岡元議員) 旅先で死亡
09/03/03 検察、民主党岩手支部家宅捜索
09/03/04 民主党事務所のある相模原卸売市場全焼

まだまだの調査に終わるが次の点ははっきりした。

1岩手県水沢市にはなんの思もいいれもない。

2妻も政略結婚であり、感情の交流はない。

3小沢氏の地元・奥州で30年間選挙支援してきた「水和会」解散。

この男は日本の政治活動において破壊活動しかしてこない。岩手県水沢市の後援者の方々は本当に気の毒でしかたがない。この大震災の中で支援者のいる地域に何も感謝せず、何の手もさしのべない。それどころか、自分可愛さにただ放射能から逃げ回っていた。

皆さん!小沢一郎がどこから出馬しようと日本人なら落としてやろう!この日本に建設的な事は何もせず、ただ害を与える男を!

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