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2013年8月の4件の記事

竹林はるか遠く 最後に

三人が朝鮮を旅立ったころ淑世は38度線を目指して歩いていた。森の奥深くに入っていた為方向がわからなくなっていた。下が急な崖になっている平地まで来ると、下に京城に向かって何キロも伸びている線路が光っていた。それから少し前を見ると歩いている人々が見えた。

すると突然歩いていた人々の向こう側から機関銃の銃撃が始まった。淑世は一瞬動けなくなった。それから崖の上の発砲した方に向かった。人々は罠にはまったのだ!下に見える線路がざわついていた。「みんな死んだ!」朝鮮語を話している声が上まで届いた。「所持品を調べろ。貴重品は全部取れ」と違う声がした。「裸にしろ。金歯をしていたら、歯を引き抜け」彼らは共産主義の兵隊で崖の上に隠れ線路づたいに歩く引き揚げ者を殺し、略奪を繰り返していたのだった。

淑世は山の奥深くに逃げ込んだ。森から離れないように一日中歩いていた。いつしか月日がわからなくなっていた。ある朝目覚めると霜が周りに厚く降りていた。雪が降り始めた。「僕はこれを乗り越え生き延びなければいけない」「母と妹たちに会いたい」「三人とも、苦労しているに違いない」「京城までたどりつかねば!」雪は吹雪に変わった。靴底はボロボロになり服は凍り、そして疲れきっていた。一寸先も見えなかった。

突然吹雪の中、木々の間から遠くにかすかな赤い明かりを見た。淑世は立ち上がった。ひどいめまいを感じ、よろめいたが引きずるように歩いた。明かりの方へ、明かりの方へと。やっとの思いで小さな農家にたどり着くと、そこで気を失い、力尽きて倒れてしまった。

一生懸命読んでくださった方には申し訳ありませんが、あらすじはこれ以上書きません。私はこの本を実際に読んでもらいたいのです。この後、淑世はどうなるのか?日本に向かった母と好と擁子はこの先どうなるのか?淑世は皆に再会できるのか?この辺の部分を私は伝えません。どうか買って読んで下さい。

あの当時朝鮮半島に住んでいた日本人がいかに敗戦という事実により朝鮮人に手のひらを返すようにいたぶられたかをあなた自身で知ってもらいたいのです。日本は1965年の日韓基本条約ですべての戦後賠償は解決しているにも拘わらず、いまだに賠償を求められています。韓国の順法意識のなさにはあきれはてます。

反日教育をしながら、経済面では日韓友好協力などが叫ばれています。

「竹島問題」

「従軍慰安婦問題」

「強制徴用問題」

「歴史の捏造問題」などなど‥

このゆすり、たかり、ヤクザ国家はなんとかできないものでしょうか。

この異常な国の一部を知るだけでも「竹林はるか遠く」は参考になると思います。また、この困難に立ち向かった川嶋家の懸命な「生」への頑張りは生きるどんな人達にも応援になると思います。是非読まれる事をお願いします。もし近くの書店にない場合はアマゾンで購入できます。

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竹林はるか遠く あらすじ 3 船出

軍服を着た三人は京城をめざして歩いていた。擁子の右耳は相変わらずズキズキ痛み、傷ついた胸は軍服に擦れた。しばらくすると日本人らしい男たちがリュックサックと包み、女たちが赤ちゃんをおぶっているのが見えた。母が話しかけここがどこかと尋ねると「遠くに見える茶色の屋根が京城駅です」と教えてくれた。遂に!

いつのまにか三人は避難民の検問所の行列についていた。検問所の警察官がこれからどこに行くのかと尋ねた。母は息子が着くまで京城に留まり戦争が終わったら羅南に戻るつもりだと話した。「戦争は終わった」と彼はいった。私達は驚きのあまり呆然としていた。「いつ?」好は聞いた。「昨日だが、君達は羅南には帰れない。今、朝鮮では、日本人は危険な状況下に置かれている。だから、北からこれほど多くの人達が避難しているのだ」「今日は何日ですか?」また好は聞いた。「8月16日だ。では長崎と広島に原子爆弾が落ちたことも聞いてないのか?」「はい」「日本は負けた」「広島も長崎も地獄そのものだ」突然母が地面に倒れた。

しばらくして母が意識を取り戻した。検問が終わり三人が出発しようとした時、警察官が擁子の怪我の手当をしてやりなさいと言った。屋根に赤十字のマークのついったテントにいた医師は擁子の耳と胸をみて「この子がどうやってここまで耐えてこられたのかわからない。ひどく化膿している」と言った。耳に細長い針金を入れて金属のかけらを抜きだした。母はこれからどうするのかと尋ねられたのでここで淑世を待つと言った。そういうことなら擁子は入院したほうがいいということになり入院する事となる。擁子には母と好が交代で付き添い、付き添わないほうが駅にいて淑世の到着を待っていた。しかし2週間たっても淑世は来なかった。

9月1日医師が母と話した。「患者は全員今月の末までにトラックで釜山(プザン)に向かいます。赤十字船が10月2日にそこから日本に出発することになっているのです。一緒に母国に戻りましょう」しかし母は淑世を待つつもりだと断った。

医師達との別れが来た。皆がひきあげてから三人は駅に戻った。「食料を探してくるわ」と好は言うと空っぽのリュックサックを持ち、ホテルのごみ箱で食べられそうなものを漁りほぼ一杯にして戻ってきた。三人が京城に来て、5週間が経ったある日、好が深刻な事態を知らせた。「私達は京城をでなければいけない。朝鮮人の男達が藪の中へ女の人達を引きずって行くのを見たし、若い女性に乱暴しているのもみたわ」好は震えていた。「女の人たちは金切り声を上げて日本語で助けを求めていたの。今からもう一度私の髪を剃ってくれる?」川で母は私達二人の頭を剃った。それから好をもっと男の子らしく見せるため、ガーゼで胸をきつく巻いた。

「明日の最終の貨物車に乗りましょう」と母は決めた。好と擁子は駅の支柱や木という木に「淑世、釜山へ」と彫った。次の日貨物車の材木の上に乗ることが出来た。三日目に、ついに列車は釜山駅に着いた。駅は満員だった。三人は港の近くの倉庫に行くように命じられた。「私は駅で息子を待たなければいけないのですが」母は朝鮮の係員に話した。「駄目だ!我々はここで独立祝賀会を開く。出て行け!」三人はのろのろと歩き倉庫に着いた。倉庫はいっぱいだった。なんとか隅に隙間をみつけて座る事が出来た。

しばらくして擁子は「お便所にいきたい」と言った。建物の隅に六つの便所があったがドアもなく男女の区別もなかった。擁子の前にいた女性が戸惑いながらズボンとパンツを下ろしてしゃがんだ。母が来て女の人の前に立ってなるべく見えないようにしてあげた。彼女は出てきて戻っていった。すると、突然、助けを求めて金切り声を上げた。振り返ると列の終わりで朝鮮人の男、4人が彼女を捕まえていた。

好のところへ戻ると好も便所へいきたいと言った。母は青白い唇を開いて「胸の包帯はきつく巻いてある?」「好、男の子がするようにするのよ」それ以来、私たちは男の子のように立小便をした。それは悲惨なものだった。しかし身の安全には代えられなかった。その日は悪夢のようだった。独立を祝いながら、酔った朝鮮人が三人の周りにきた。一人が前後にふらつきながら好に執拗にせまった。「お前は男か女か?」「男だ」と好は答えた。「女の声のようだ。触らせろ」「触ってみろ」好は言い返した。

酔った朝鮮人は大きな手を好の胸に当てた。「平らだ」男は言った。「男には興味がない」男たちの集団はさったが彼らは悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちをみつける度に外へ引きずりだした。たびたび女たちの悲鳴が響いた。

母も好もその夜眠れなかった。翌朝は擁子が食べ物探しに行くことになった。擁子はごみをつつきながら一杯になったリュックサックを頭の上に乗せ戻りはじめた。小さな小川で水を飲もうと立ち止まったとき、擁子は泣き叫ぶ声を聞いた。草むらの中で女性の上に乗った朝鮮人がいた。彼女は思いっ切り男を蹴飛ばしながら金切り声を上げていた。擁子の膝が震え始めた。出来るだけ早くその場を離れ、母と好の元へと急いだ。「これ以上ここにいることは出来ないわ」擁子が見たものを話し終えると母はそう決断した。「私たちは日本へ帰らなくちゃ」しかし、母の目は涙でいっぱいだった。「でも淑世が‥。淑世は朝鮮で一人ぼっちになってしまうわ」

一週間後、貨物船がやってきて百人が日本に行く事ができると知らされた。しかし三人は百人に入ることができなかった。百人は去ったがまた次の百人が押し寄せてきた。三人はその場から離れることができなかった。一週間後、船は戻ったが次の百人にも入れなかった。母は群集の中淑世を探し続けた。再び船が見えた。ついに三人は百番以内に入ることができた。朝鮮人の係員のきびしい検査もとおり三人は船に乗ることができた。

海が朝日の色に染まってきらめき始めた頃、船はゆっくりと埠頭を離れた。「ついにやったわ!もう脅えることはないのね」好は、ゆっくりと消えてゆく朝鮮半島をじっとみつめていた。涙が頬を伝っていた。母の顔も涙がこらえられず、ぐしょぐしょになっていた。
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竹林はるか遠く あらすじ 2  兄-淑世

母達が逃げだした時、淑世は、羅南の爆薬工場にいた。淑世の友人正一、誠、眞蔵の三人が便所に消えたちょうどその時突然共産軍が工場に入ってきた。淑世は前にあった空箱に飛び込んだ。級友の泰男が銃をとり発射した。すぐさま共産軍は反撃してきた。ダダダダダダダダ‥。泰男は倒れた。ほとんどが殺され、何人かが捕まえられた。淑世は無事だった。共産軍は捕らえた何人かと出ていった。隊長は「武器を外に出し、この建物は爆破しろ」と命じた。

淑世は何も聞こえなくなったことを確認すると、用心深く箱から出て泰男の体の上を這った。死体だらけだった。吐き気と恐怖におののきながら、便所の戸までやっとのことで行くと、頭で押し明けた。「誠?」淑世は立ち上がった。「正一、眞蔵、誠、俺だ、淑世だ」三つ目の便所の戸がわずかに開いて三人が出てきた。「奴等はここを爆破するつもりだ。一刻も早く逃げるんだ」

共産兵は捕まえた人に銃を向けながら大通りの方へ歩かせている。四人は便所の窓を押し開け、一目散に工場の壁に沿って山の方に向かって走った。それほど遠くへ行かないうちに爆発音が響いた。振り返ると工場が爆発し爆煙が上がっていた。

青年達は家に向かって歩き続けた。夜が明ける頃村外れの竹林の中に建っていた淑世の家に着いた。玄関は壊され、勝手口は開けっぱなしになっていた。共産軍に掠奪されていた。淑世はミシンの上にあった書置きに気が付いた。「息子へ。私達は出発しなければいけません。京城の駅で待っています」淑世は残っていた米や飯盒や下着や靴下、セーターをリュックサックに詰め、すぐに逃げ出したがまた戻って家族のアルバムをしっかりと腕に抱えて家を後にした。

正一の家に行くと眞蔵と正一の両親は南の方へ逃げていたが、誠の両親は殺されていた。日本の学生服ではこの町を逃げることは出来ない事がわかる淑世は家族の友人の李さんのところへ朝鮮服を借りに行く事にした。李さんは朝鮮人だが共産主義者ではない。だがいってみると李さん夫婦は殺されていた。共産軍は同胞の善人をも惨殺していた。「服を借りて、ここから逃げよう」正一が叫んだ。

青年達の歩く旅が始まった。彼らは話さなければいけないときはいつも朝鮮語を使った。共産軍に見つからないように日中は休み、夜間に歩いた。歩き始めてすでに10日がたっていた。日がたつにつれ多くの朝鮮人や日本人、女性や子供が線路を歩いているのが目立ち始めた。年老いた老人が淑世達に日本語で話しかけてきた。そしてその老人から日本が負けたという事と戦争が終わった事を知らされた。

線路を離れ茂みを探しているその時だった。「止まれ!」誰かがへたな朝鮮語で叫んだ。反対側の茂みから二人のソ連兵が銃を持って走ってきた。淑世は朝鮮共産軍の人間だと嘘を言い、日本製の美味しい煙草を差出し端川(タンチョン)の町に行けば、共産軍の本部が安い賃金で労働者を雇っているのでそこで働けば食料ぐらいはもらえるだろうという話をもらった。

端川に着くと共産軍本部で働く事にした。仕事は死体を大きなわら袋に入れて崖から端川湾に放り投げる事だった。それらは列車から投げ落とされたり、野原に置き去りにされたりして死んだ人々だった。一日の労働を終えると煮たキャベツとご飯が与えられた。ここでの仕事が終わると、給料を少し受け取り、さらに南へと歩き続けた。港町の元山(ウォンサン)に着くまで1ヶ月半かかった。もう9月の終わりになっていた。淑世はここで仲間と別れ一人京城へと向かう事にした。淑世は少なくても38°線まで行こうと決めた。一人旅を心細く感じていたがもうすぐ母や姉妹に会えるという夢を抱きながら線路を歩き続けた。

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竹林はるか遠く あらすじ 1

話は1945年3月頃から始まる。主人公川嶋擁子は父が満州鉄道に勤めていた為、一家で朝鮮北部の羅南(らなん)に住んでいた。平和な村だった。父は会社に住込み1週間に一度帰って来るという生活だった為、普段は母と兄の淑世(ひでよ18歳)、姉の好(こう16歳)、擁子(11歳)の4人暮らしだった。

両親はたとえ戦争中であっても擁子に習字や茶道、華道、詩歌の詠み書き、日本舞踊などの稽古を続けさせていた。東京大空襲の事は家族の耳に入っていた。大日本帝国陸軍は軍の病院を拡大する為に力ずくで朝鮮から農地を奪った。朝鮮人達は大日本帝国に統治されていた為に、日本人を嫌い、戦争を快く思っていなかった。

そんな時、擁子は陸軍病院で負傷兵の為の催し物に参加する子供に選ばれていた。当日擁子は日本舞踊を踊った。その中に生きる意欲を失い食事もとらず、治療もさせない人がいた。その人が松村伍長だった。擁子は松村伍長と会話する機会を与えられ、その会話が松村伍長の心を救った。

それから数週間後、傷痍軍人の着物を着た松村伍長が現れた。それからというもの松村伍長はしばしば擁子達の家を訪ねることとなった。

しだいに戦局が厳しくなり、兄の淑世は兵器工場で住込みで働くことになり、出かけていったその夜、突然誰かが戸を叩く音と叫び声が聞こえた。松村伍長だった。「まもなくソ連兵が上陸してきてきっとみなさんを探しにきます。ここに残っていては殺されてしまうでしょう。息子さんには京城(現在のソウル)駅で待っていると書置きを残して下さい。日本人の病人を非難させている赤十字列車(傷病兵輸送列車)が朝4時に羅南を出発します。それにあなた達が乗れるよう私が駅長に取り計らってあります。彼は私の友達なのです」

伍長は擁子の顎に手を触れて微笑むとおでこに唇をあて「君の事を忘れないよ」といった。「私は再び出征するように命令されています」と帰ろうとする伍長さんを擁子は呼び止めた。“武運長久”と擁子が書いた習字の半紙をすばやく巻いて伍長さんに渡した。「ありがとう。自分も皆さんのご無事を祈ります」そういい残して暗闇の中に消えていった。

1945年7月29日真夜中、三人は淑世と父に書置きを残し羅南から脱出した。母は細引きで自分の手首と擁子の手首を結びつけた。「これで絶対に離れ離れにならないわ」続いて好の手首を縛りながら「家の鍵は掛けていくけど淑世は窓からはいれるから大丈夫。あと私達がここを出る事を誰にも気づかれないように。たとえ何があっても駅までは静かにするのよ。わかった?」

三人は駅まで一番近い川沿いの道を歩いた。「静かに」母がささやいた。三人は雑草や小石で体をすりながら急斜面の土手を滑り降りた。「イル(1)、イー(2)、サム(3)、サー(4)」反日朝鮮軍だ。彼らは三人のすぐそばまできていた。「止まれっ!全員川岸まで走れ!敵を殺す訓練をする」敵というのは日本人のことだ。部隊長は三人のすぐ近くで敵の刺し殺し方や身の守り方を説明し、川や溝に死体を引きずり降ろす方法まで教えていた。やがて「全員泳げ」という命令と共に遠ざかっていった。

三人はまた道を歩きはじめた。やっと羅南駅に到着した。駅は日本人の衛生兵や民間医療班や傷病兵でごったがえしていた。朝鮮人の駅長は松村伍長のことなど構わず三人を乗せまいとした。軍医の威圧的態度にやっとのことで女性患者の貨車に乗れることになった。汽車は京城行きだった。貨車の中は死にそうな病人であふれていた。

しばらくして汽車が止まった。看護婦が「共産軍の兵隊達が車内を点検しているのだ!」といった。擁子は衛生兵に血のついた床に投げたおされた。好は横になるように言われ先ほど子供が生まれた女性の胎盤をおなかに乗せられ大きな敷布で覆われた。母にも横になるようにいった。そして血で汚れた擁子のブラウスを脱がせ好と母の顔をこすった。まもなく共産軍が飛び乗ってきた。

「ここにいるのは全員、病人か?」「我々は健康な日本人を探している。中年女性で、16歳と8歳位の少女と、19歳の青年を連れて羅南から乗ってきた者だ。名前はカワシマ」この難は看護婦の機知によりなんとかだます事ができた。また夜が更けていった。突然汽車が大きく揺れて止まった。飛行機が汽車の上を飛んで行った。先頭の機関車が爆破されたのだ。赤十字をつけた列車や船を攻撃してはならないのにだ。

京城から70キロ離れた所だった。共産軍がねらっている擁子たち三人はここで汽車を降り歩く事とした。線路伝いに京城に向かった。夜が明け始めると線路から離れ茂みを見つけ睡眠をとり日中は捕まらないように隠れていた。夕闇が三人を隠してくれるまで待ち、そして再び線路の上を歩きだした。

夜が明けると遠くで飛行機の音がしはじめた。三人は線路から離れて森の中に隠れた。丸1日寝た。目が覚めわずかなご飯を食べ終わった頃、突然3人の共産兵が三人の前に立ちはだかった。「立て、動くな!」と彼らは怒鳴った。共産兵は3人とも好を見ていた。「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」と一人がいった。その言葉が終わるか終わらないうちに、飛行機の爆音が聞こえ、三人の頭すれすれに飛んだ。よく訓練された三人はすぐに、地面に伏せた。ドカーン!

爆弾が近くで破裂した。擁子は気絶した。誰かが乱暴に擁子を揺すったので目をさましたが、擁子の右耳は聞こえなくなっていた。そして胸の激しい痛みと共に血が出ていた。共産兵は皆死んでいた。三人は生きていた。いつしかまた眠りに落ちていた。次の日に起きると好と母の姿に驚いた。好は共産軍の軍服を着、長い黒髪は切り落とされていた。母も軍服を着ていた。母は擁子の髪を剃った。そして擁子にも死んだ共産軍の軍服を着せた。それからまた何日も何日も線路を歩き続けた。
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