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竹林はるか遠く 最後に

三人が朝鮮を旅立ったころ淑世は38度線を目指して歩いていた。森の奥深くに入っていた為方向がわからなくなっていた。下が急な崖になっている平地まで来ると、下に京城に向かって何キロも伸びている線路が光っていた。それから少し前を見ると歩いている人々が見えた。

すると突然歩いていた人々の向こう側から機関銃の銃撃が始まった。淑世は一瞬動けなくなった。それから崖の上の発砲した方に向かった。人々は罠にはまったのだ!下に見える線路がざわついていた。「みんな死んだ!」朝鮮語を話している声が上まで届いた。「所持品を調べろ。貴重品は全部取れ」と違う声がした。「裸にしろ。金歯をしていたら、歯を引き抜け」彼らは共産主義の兵隊で崖の上に隠れ線路づたいに歩く引き揚げ者を殺し、略奪を繰り返していたのだった。

淑世は山の奥深くに逃げ込んだ。森から離れないように一日中歩いていた。いつしか月日がわからなくなっていた。ある朝目覚めると霜が周りに厚く降りていた。雪が降り始めた。「僕はこれを乗り越え生き延びなければいけない」「母と妹たちに会いたい」「三人とも、苦労しているに違いない」「京城までたどりつかねば!」雪は吹雪に変わった。靴底はボロボロになり服は凍り、そして疲れきっていた。一寸先も見えなかった。

突然吹雪の中、木々の間から遠くにかすかな赤い明かりを見た。淑世は立ち上がった。ひどいめまいを感じ、よろめいたが引きずるように歩いた。明かりの方へ、明かりの方へと。やっとの思いで小さな農家にたどり着くと、そこで気を失い、力尽きて倒れてしまった。

一生懸命読んでくださった方には申し訳ありませんが、あらすじはこれ以上書きません。私はこの本を実際に読んでもらいたいのです。この後、淑世はどうなるのか?日本に向かった母と好と擁子はこの先どうなるのか?淑世は皆に再会できるのか?この辺の部分を私は伝えません。どうか買って読んで下さい。

あの当時朝鮮半島に住んでいた日本人がいかに敗戦という事実により朝鮮人に手のひらを返すようにいたぶられたかをあなた自身で知ってもらいたいのです。日本は1965年の日韓基本条約ですべての戦後賠償は解決しているにも拘わらず、いまだに賠償を求められています。韓国の順法意識のなさにはあきれはてます。

反日教育をしながら、経済面では日韓友好協力などが叫ばれています。

「竹島問題」

「従軍慰安婦問題」

「強制徴用問題」

「歴史の捏造問題」などなど‥

このゆすり、たかり、ヤクザ国家はなんとかできないものでしょうか。

この異常な国の一部を知るだけでも「竹林はるか遠く」は参考になると思います。また、この困難に立ち向かった川嶋家の懸命な「生」への頑張りは生きるどんな人達にも応援になると思います。是非読まれる事をお願いします。もし近くの書店にない場合はアマゾンで購入できます。

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竹林はるか遠く あらすじ 3 船出

軍服を着た三人は京城をめざして歩いていた。擁子の右耳は相変わらずズキズキ痛み、傷ついた胸は軍服に擦れた。しばらくすると日本人らしい男たちがリュックサックと包み、女たちが赤ちゃんをおぶっているのが見えた。母が話しかけここがどこかと尋ねると「遠くに見える茶色の屋根が京城駅です」と教えてくれた。遂に!

いつのまにか三人は避難民の検問所の行列についていた。検問所の警察官がこれからどこに行くのかと尋ねた。母は息子が着くまで京城に留まり戦争が終わったら羅南に戻るつもりだと話した。「戦争は終わった」と彼はいった。私達は驚きのあまり呆然としていた。「いつ?」好は聞いた。「昨日だが、君達は羅南には帰れない。今、朝鮮では、日本人は危険な状況下に置かれている。だから、北からこれほど多くの人達が避難しているのだ」「今日は何日ですか?」また好は聞いた。「8月16日だ。では長崎と広島に原子爆弾が落ちたことも聞いてないのか?」「はい」「日本は負けた」「広島も長崎も地獄そのものだ」突然母が地面に倒れた。

しばらくして母が意識を取り戻した。検問が終わり三人が出発しようとした時、警察官が擁子の怪我の手当をしてやりなさいと言った。屋根に赤十字のマークのついったテントにいた医師は擁子の耳と胸をみて「この子がどうやってここまで耐えてこられたのかわからない。ひどく化膿している」と言った。耳に細長い針金を入れて金属のかけらを抜きだした。母はこれからどうするのかと尋ねられたのでここで淑世を待つと言った。そういうことなら擁子は入院したほうがいいということになり入院する事となる。擁子には母と好が交代で付き添い、付き添わないほうが駅にいて淑世の到着を待っていた。しかし2週間たっても淑世は来なかった。

9月1日医師が母と話した。「患者は全員今月の末までにトラックで釜山(プザン)に向かいます。赤十字船が10月2日にそこから日本に出発することになっているのです。一緒に母国に戻りましょう」しかし母は淑世を待つつもりだと断った。

医師達との別れが来た。皆がひきあげてから三人は駅に戻った。「食料を探してくるわ」と好は言うと空っぽのリュックサックを持ち、ホテルのごみ箱で食べられそうなものを漁りほぼ一杯にして戻ってきた。三人が京城に来て、5週間が経ったある日、好が深刻な事態を知らせた。「私達は京城をでなければいけない。朝鮮人の男達が藪の中へ女の人達を引きずって行くのを見たし、若い女性に乱暴しているのもみたわ」好は震えていた。「女の人たちは金切り声を上げて日本語で助けを求めていたの。今からもう一度私の髪を剃ってくれる?」川で母は私達二人の頭を剃った。それから好をもっと男の子らしく見せるため、ガーゼで胸をきつく巻いた。

「明日の最終の貨物車に乗りましょう」と母は決めた。好と擁子は駅の支柱や木という木に「淑世、釜山へ」と彫った。次の日貨物車の材木の上に乗ることが出来た。三日目に、ついに列車は釜山駅に着いた。駅は満員だった。三人は港の近くの倉庫に行くように命じられた。「私は駅で息子を待たなければいけないのですが」母は朝鮮の係員に話した。「駄目だ!我々はここで独立祝賀会を開く。出て行け!」三人はのろのろと歩き倉庫に着いた。倉庫はいっぱいだった。なんとか隅に隙間をみつけて座る事が出来た。

しばらくして擁子は「お便所にいきたい」と言った。建物の隅に六つの便所があったがドアもなく男女の区別もなかった。擁子の前にいた女性が戸惑いながらズボンとパンツを下ろしてしゃがんだ。母が来て女の人の前に立ってなるべく見えないようにしてあげた。彼女は出てきて戻っていった。すると、突然、助けを求めて金切り声を上げた。振り返ると列の終わりで朝鮮人の男、4人が彼女を捕まえていた。

好のところへ戻ると好も便所へいきたいと言った。母は青白い唇を開いて「胸の包帯はきつく巻いてある?」「好、男の子がするようにするのよ」それ以来、私たちは男の子のように立小便をした。それは悲惨なものだった。しかし身の安全には代えられなかった。その日は悪夢のようだった。独立を祝いながら、酔った朝鮮人が三人の周りにきた。一人が前後にふらつきながら好に執拗にせまった。「お前は男か女か?」「男だ」と好は答えた。「女の声のようだ。触らせろ」「触ってみろ」好は言い返した。

酔った朝鮮人は大きな手を好の胸に当てた。「平らだ」男は言った。「男には興味がない」男たちの集団はさったが彼らは悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちをみつける度に外へ引きずりだした。たびたび女たちの悲鳴が響いた。

母も好もその夜眠れなかった。翌朝は擁子が食べ物探しに行くことになった。擁子はごみをつつきながら一杯になったリュックサックを頭の上に乗せ戻りはじめた。小さな小川で水を飲もうと立ち止まったとき、擁子は泣き叫ぶ声を聞いた。草むらの中で女性の上に乗った朝鮮人がいた。彼女は思いっ切り男を蹴飛ばしながら金切り声を上げていた。擁子の膝が震え始めた。出来るだけ早くその場を離れ、母と好の元へと急いだ。「これ以上ここにいることは出来ないわ」擁子が見たものを話し終えると母はそう決断した。「私たちは日本へ帰らなくちゃ」しかし、母の目は涙でいっぱいだった。「でも淑世が‥。淑世は朝鮮で一人ぼっちになってしまうわ」

一週間後、貨物船がやってきて百人が日本に行く事ができると知らされた。しかし三人は百人に入ることができなかった。百人は去ったがまた次の百人が押し寄せてきた。三人はその場から離れることができなかった。一週間後、船は戻ったが次の百人にも入れなかった。母は群集の中淑世を探し続けた。再び船が見えた。ついに三人は百番以内に入ることができた。朝鮮人の係員のきびしい検査もとおり三人は船に乗ることができた。

海が朝日の色に染まってきらめき始めた頃、船はゆっくりと埠頭を離れた。「ついにやったわ!もう脅えることはないのね」好は、ゆっくりと消えてゆく朝鮮半島をじっとみつめていた。涙が頬を伝っていた。母の顔も涙がこらえられず、ぐしょぐしょになっていた。
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竹林はるか遠く あらすじ 2  兄-淑世

母達が逃げだした時、淑世は、羅南の爆薬工場にいた。淑世の友人正一、誠、眞蔵の三人が便所に消えたちょうどその時突然共産軍が工場に入ってきた。淑世は前にあった空箱に飛び込んだ。級友の泰男が銃をとり発射した。すぐさま共産軍は反撃してきた。ダダダダダダダダ‥。泰男は倒れた。ほとんどが殺され、何人かが捕まえられた。淑世は無事だった。共産軍は捕らえた何人かと出ていった。隊長は「武器を外に出し、この建物は爆破しろ」と命じた。

淑世は何も聞こえなくなったことを確認すると、用心深く箱から出て泰男の体の上を這った。死体だらけだった。吐き気と恐怖におののきながら、便所の戸までやっとのことで行くと、頭で押し明けた。「誠?」淑世は立ち上がった。「正一、眞蔵、誠、俺だ、淑世だ」三つ目の便所の戸がわずかに開いて三人が出てきた。「奴等はここを爆破するつもりだ。一刻も早く逃げるんだ」

共産兵は捕まえた人に銃を向けながら大通りの方へ歩かせている。四人は便所の窓を押し開け、一目散に工場の壁に沿って山の方に向かって走った。それほど遠くへ行かないうちに爆発音が響いた。振り返ると工場が爆発し爆煙が上がっていた。

青年達は家に向かって歩き続けた。夜が明ける頃村外れの竹林の中に建っていた淑世の家に着いた。玄関は壊され、勝手口は開けっぱなしになっていた。共産軍に掠奪されていた。淑世はミシンの上にあった書置きに気が付いた。「息子へ。私達は出発しなければいけません。京城の駅で待っています」淑世は残っていた米や飯盒や下着や靴下、セーターをリュックサックに詰め、すぐに逃げ出したがまた戻って家族のアルバムをしっかりと腕に抱えて家を後にした。

正一の家に行くと眞蔵と正一の両親は南の方へ逃げていたが、誠の両親は殺されていた。日本の学生服ではこの町を逃げることは出来ない事がわかる淑世は家族の友人の李さんのところへ朝鮮服を借りに行く事にした。李さんは朝鮮人だが共産主義者ではない。だがいってみると李さん夫婦は殺されていた。共産軍は同胞の善人をも惨殺していた。「服を借りて、ここから逃げよう」正一が叫んだ。

青年達の歩く旅が始まった。彼らは話さなければいけないときはいつも朝鮮語を使った。共産軍に見つからないように日中は休み、夜間に歩いた。歩き始めてすでに10日がたっていた。日がたつにつれ多くの朝鮮人や日本人、女性や子供が線路を歩いているのが目立ち始めた。年老いた老人が淑世達に日本語で話しかけてきた。そしてその老人から日本が負けたという事と戦争が終わった事を知らされた。

線路を離れ茂みを探しているその時だった。「止まれ!」誰かがへたな朝鮮語で叫んだ。反対側の茂みから二人のソ連兵が銃を持って走ってきた。淑世は朝鮮共産軍の人間だと嘘を言い、日本製の美味しい煙草を差出し端川(タンチョン)の町に行けば、共産軍の本部が安い賃金で労働者を雇っているのでそこで働けば食料ぐらいはもらえるだろうという話をもらった。

端川に着くと共産軍本部で働く事にした。仕事は死体を大きなわら袋に入れて崖から端川湾に放り投げる事だった。それらは列車から投げ落とされたり、野原に置き去りにされたりして死んだ人々だった。一日の労働を終えると煮たキャベツとご飯が与えられた。ここでの仕事が終わると、給料を少し受け取り、さらに南へと歩き続けた。港町の元山(ウォンサン)に着くまで1ヶ月半かかった。もう9月の終わりになっていた。淑世はここで仲間と別れ一人京城へと向かう事にした。淑世は少なくても38°線まで行こうと決めた。一人旅を心細く感じていたがもうすぐ母や姉妹に会えるという夢を抱きながら線路を歩き続けた。

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竹林はるか遠く あらすじ 1

話は1945年3月頃から始まる。主人公川嶋擁子は父が満州鉄道に勤めていた為、一家で朝鮮北部の羅南(らなん)に住んでいた。平和な村だった。父は会社に住込み1週間に一度帰って来るという生活だった為、普段は母と兄の淑世(ひでよ18歳)、姉の好(こう16歳)、擁子(11歳)の4人暮らしだった。

両親はたとえ戦争中であっても擁子に習字や茶道、華道、詩歌の詠み書き、日本舞踊などの稽古を続けさせていた。東京大空襲の事は家族の耳に入っていた。大日本帝国陸軍は軍の病院を拡大する為に力ずくで朝鮮から農地を奪った。朝鮮人達は大日本帝国に統治されていた為に、日本人を嫌い、戦争を快く思っていなかった。

そんな時、擁子は陸軍病院で負傷兵の為の催し物に参加する子供に選ばれていた。当日擁子は日本舞踊を踊った。その中に生きる意欲を失い食事もとらず、治療もさせない人がいた。その人が松村伍長だった。擁子は松村伍長と会話する機会を与えられ、その会話が松村伍長の心を救った。

それから数週間後、傷痍軍人の着物を着た松村伍長が現れた。それからというもの松村伍長はしばしば擁子達の家を訪ねることとなった。

しだいに戦局が厳しくなり、兄の淑世は兵器工場で住込みで働くことになり、出かけていったその夜、突然誰かが戸を叩く音と叫び声が聞こえた。松村伍長だった。「まもなくソ連兵が上陸してきてきっとみなさんを探しにきます。ここに残っていては殺されてしまうでしょう。息子さんには京城(現在のソウル)駅で待っていると書置きを残して下さい。日本人の病人を非難させている赤十字列車(傷病兵輸送列車)が朝4時に羅南を出発します。それにあなた達が乗れるよう私が駅長に取り計らってあります。彼は私の友達なのです」

伍長は擁子の顎に手を触れて微笑むとおでこに唇をあて「君の事を忘れないよ」といった。「私は再び出征するように命令されています」と帰ろうとする伍長さんを擁子は呼び止めた。“武運長久”と擁子が書いた習字の半紙をすばやく巻いて伍長さんに渡した。「ありがとう。自分も皆さんのご無事を祈ります」そういい残して暗闇の中に消えていった。

1945年7月29日真夜中、三人は淑世と父に書置きを残し羅南から脱出した。母は細引きで自分の手首と擁子の手首を結びつけた。「これで絶対に離れ離れにならないわ」続いて好の手首を縛りながら「家の鍵は掛けていくけど淑世は窓からはいれるから大丈夫。あと私達がここを出る事を誰にも気づかれないように。たとえ何があっても駅までは静かにするのよ。わかった?」

三人は駅まで一番近い川沿いの道を歩いた。「静かに」母がささやいた。三人は雑草や小石で体をすりながら急斜面の土手を滑り降りた。「イル(1)、イー(2)、サム(3)、サー(4)」反日朝鮮軍だ。彼らは三人のすぐそばまできていた。「止まれっ!全員川岸まで走れ!敵を殺す訓練をする」敵というのは日本人のことだ。部隊長は三人のすぐ近くで敵の刺し殺し方や身の守り方を説明し、川や溝に死体を引きずり降ろす方法まで教えていた。やがて「全員泳げ」という命令と共に遠ざかっていった。

三人はまた道を歩きはじめた。やっと羅南駅に到着した。駅は日本人の衛生兵や民間医療班や傷病兵でごったがえしていた。朝鮮人の駅長は松村伍長のことなど構わず三人を乗せまいとした。軍医の威圧的態度にやっとのことで女性患者の貨車に乗れることになった。汽車は京城行きだった。貨車の中は死にそうな病人であふれていた。

しばらくして汽車が止まった。看護婦が「共産軍の兵隊達が車内を点検しているのだ!」といった。擁子は衛生兵に血のついた床に投げたおされた。好は横になるように言われ先ほど子供が生まれた女性の胎盤をおなかに乗せられ大きな敷布で覆われた。母にも横になるようにいった。そして血で汚れた擁子のブラウスを脱がせ好と母の顔をこすった。まもなく共産軍が飛び乗ってきた。

「ここにいるのは全員、病人か?」「我々は健康な日本人を探している。中年女性で、16歳と8歳位の少女と、19歳の青年を連れて羅南から乗ってきた者だ。名前はカワシマ」この難は看護婦の機知によりなんとかだます事ができた。また夜が更けていった。突然汽車が大きく揺れて止まった。飛行機が汽車の上を飛んで行った。先頭の機関車が爆破されたのだ。赤十字をつけた列車や船を攻撃してはならないのにだ。

京城から70キロ離れた所だった。共産軍がねらっている擁子たち三人はここで汽車を降り歩く事とした。線路伝いに京城に向かった。夜が明け始めると線路から離れ茂みを見つけ睡眠をとり日中は捕まらないように隠れていた。夕闇が三人を隠してくれるまで待ち、そして再び線路の上を歩きだした。

夜が明けると遠くで飛行機の音がしはじめた。三人は線路から離れて森の中に隠れた。丸1日寝た。目が覚めわずかなご飯を食べ終わった頃、突然3人の共産兵が三人の前に立ちはだかった。「立て、動くな!」と彼らは怒鳴った。共産兵は3人とも好を見ていた。「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」と一人がいった。その言葉が終わるか終わらないうちに、飛行機の爆音が聞こえ、三人の頭すれすれに飛んだ。よく訓練された三人はすぐに、地面に伏せた。ドカーン!

爆弾が近くで破裂した。擁子は気絶した。誰かが乱暴に擁子を揺すったので目をさましたが、擁子の右耳は聞こえなくなっていた。そして胸の激しい痛みと共に血が出ていた。共産兵は皆死んでいた。三人は生きていた。いつしかまた眠りに落ちていた。次の日に起きると好と母の姿に驚いた。好は共産軍の軍服を着、長い黒髪は切り落とされていた。母も軍服を着ていた。母は擁子の髪を剃った。そして擁子にも死んだ共産軍の軍服を着せた。それからまた何日も何日も線路を歩き続けた。
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竹林(たけばやし)はるか遠く  ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著

この本は面白い。読み初めからいきなりひきずり込まれました。苦難が何度もやってきます。どうなるの?どうなるの?の繰り返Take_3

しでどんどん本の世界に入ってしまいます。あまりの面白さに読み終わるとまた、初めから最後まで読みました。そのくらい面白い本です。

この「竹林(たけばやし)はるか遠く」は川嶋擁子氏が1986年にアメリカで出版したもので、もう27年も前に書かれた本です。そしてこの本は翌年の1987年からアメリカの中学校の教材として採用されたそうです。

川嶋擁子氏について少し経歴を書いておきます。

川嶋擁子氏は1933(昭和8)年青森県で生まれで、生後6ヶ月で南満州鉄道(満鉄)に勤務する父に連れられ、家族で朝鮮北部の羅南(らなん)-現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市に移住。家族は父と母、長男の淑世(ひでよ)、長女の好(こう)、そして主人公の次女擁子の5人です。

本の内容は彼女が、1945年7月29日の深夜に羅南を母と姉と擁子の三人で脱出し、数々の苦難を乗り越え日本に辿りつき、京都で暮らし始め、その後、半年位までの体験を書いた自叙伝的小説です。家族と伍長として登場する松村氏は本名となっています。

引き揚げ者の話ですが、あくまで11歳の少女-擁子の目線で書かれた戦争引き揚げ体験談です。

戦争という恐怖の中で家族が力を合わせ、知力をふりしぼり、そして当時わずか11歳の少女がこの状況の中で、恐れず、あきらめず、生き抜く姿は全米中に感動を与える事になりました。この本の英語のタイトルは「So Far from the Bamboo Grove」で1987年からはアメリカの中学校の教材になりました。

また、数々の賞にも輝いています。1998年にはボストン図書館が推奨する児童文学者に選ばれています。

アメリカの平和団体ピース・アビーよりガンジーやマザーテレサ、ダライラマも受賞した「The Courage of onscience

Award(誠実な良心に対する賞)」

「ALA Notable Book(アメリカ自由協会が注目する賞)」

「Parents' Choice Gold Award(親が子供に選ぶ素晴らしい本である賞)」

等多くの賞を受賞しています。

日本に帰ってきた川嶋擁子氏はその後働きながら学問に励み、大学の夜間部で英米文学を学び、卒業後米軍空軍基地で通訳として働きだしました。そして1953年、彼女はアメリカ人パイロットのドナルド・ワトキンス氏と結婚しヨーコ・カワシマ・ワトキンズとなりました。1958年に彼女は彼と一緒にアメリカ、マサチューセッツ州に移ります。それから21年後の1976年から自叙伝を書き始め1986年に「So Far from the Bamboo Grove」を出版しました。

ヨーコ・カワシマ・ワトキンズの日本語版刊行に寄せてより

この本がアメリカで出版されて20年経った2006年の秋、ボストン近郊に住む在米2世韓国人たちが突如怒りを爆発させました。

本書はアメリカで中学生の教材として採用されていたのですが、その内容について、「日本人を被害者にし、長年の日帝侵略が朝鮮人民に対して被害、犠牲、苦痛を与えた歴史を正確に書いていない」「強姦についても写実的に書いており、中学生の読むのにふさわしい本ではない。といった理由をつけて、本を教材からはずす運動をあらゆる手段を使ってやり始めたのです。

さらに、「私の父が731部隊に属していた悪名高い戦犯であり、また慰安婦を満州に送っていた悪者である」といった事実に反することも言い始めました。そこにボストン駐在韓国領事も仲間に加わり、この動きが世界中に広まったのです。


この本の中には、彼女達が脱出して釜山港で船に乗るまでの逃避行の際、なんども共産党の朝鮮人に略奪され、殺そうとされ、強姦されようとする場面が出てくるのです。三人は何とか逃げおうせましたが、強姦され殺される場面を何度も目撃しています。彼らは共産党員ではない朝鮮人にもその刃を向けていました。

この事実は現在の韓国にとってはものすごくまずい証拠なのです。彼らにとっては自分達こそ日本にくい物にされた可哀想な国でなければならないのです。ここからさらに従軍慰安婦があった運動に力が入ることとなりました。

この本はアメリカで原書を読んで感動した人達がまずネットで紹介しだしました。アメリカでは直訳で「竹の森遠く」で出版されています。その噂が日本全土にネットで飛び、それを知った日本人は、韓国がありもしない「従軍慰安婦」でたたく20年も前に朝鮮人による略奪、強姦、殺人が行われていた事実に驚くことになりました。

そんなこんなで待望していたこの本が邦訳されついに日本で発売されました。発売されたのは2013年7月11日(木)です。邦題は本人の希望により「竹林(たけばやし)はるか遠く」となりました。

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石原都知事世紀の講演part3-「日本はアメリカのおめかけさん」

これあんがいみなさんわからないかもしれませんが、日本の閣僚は昔は優秀でよかったけど今非常に悪い。自分の利益ばっかりになった。官僚が軍隊になっちゃた。絶対的存在になっちゃたんですよ。日本の政治家がそれに使われる。いくら行ってもだめ、結局役人のいいなりになっちゃう。

大体あれでしょう。日本の皆さんならわかるかな。あのちっぽけな四国という島にね。瀬戸内海から3本の橋を架ける。もうかるわけないでしょ。こんなもの。福田内閣で決めたから「どうせ考えても無駄だからおよしなさい」って言ったら誰もいわない。最期に福田さんが「君、余計な事言うな!もう決まってることなんだ。ちゃんと合理性があるんだ」(石原氏)「そら福田さんあんたね、かってな数字作ったんじゃないの?」って言ったら、僕は福田さんにずいぶん可愛がられて閣僚にもしてもらったけど怒られました。

それでねそういうことが起きる背景に、これも主要矛盾なんだけど外国の人は怪訝に思うでしょうけど日本の国家の会計制度っていうのはバランスシートがないんです。単式簿記といって大福帳と同じなんだ。ですからね。どんな国でも発生主義複式簿記でやっているのに、おそらく先進国の中で単式簿記でやっている馬鹿な国はこりゃ日本だけでしょう。

複式簿記・発生主義をやらなかったら何が悪いかって言うと財務諸表がないんです。日本の国は。財務諸表って何かっていうと、専門の方はわかるでしょうけど、この株を買いたいなんて、この会社の内容はどうかなんて、この株をまずいから売っちまおうかなんて、思った時に何を手がかりにするかというとこの財務諸表なんですよ。だからね官僚は平気で金を隠すし、ごまかすし、でてこない。

こないだナベツネさんに聞いたんだけどね、「えー」て言ったんですけどタンス預金してる人がいてその額が30兆円あるんですって。その30兆円のうち10兆円が昔懐かしい聖徳大使の一万円札なんだって。それをね、換えずにもっている。この間200億円ある金持ちがうしろめたいし、まずいんで、もう一人の金持ちも140億円あるんだけど新札に換えて欲しいと税理士さんに頼んだらしいんだ。そしたらやってもいいけど手数料は頂きますけど、しかしもっと問題なのはなんでこんなに金が貯まったのか、おそらく査察みたいなのが入って厄介な事になりますてんで止めたって、また旧札で持ってんだって。そういうお金のね(話を)掴んでいながら、金をどうやって引き出して、流通させて国家の為に使うかという事、今の役人は考えられない。自分の使かっている会計制度が間違っているから。

そんなこんなで私達は使える金も使えない。日本の経済は疲弊してきたわけです。

もう一つ安全保障の問題ですが、日本は今どういう状況にあるんですか?回りに北朝鮮、状況証拠からすると、日本から数百人の同胞を拉致していって殺した。そして帰さない。この国がわけのわからない核開発をやっている。その上にあるロシアがですが、かつて条約を破り突然宣誓布告してきて日本の北方領土をかすめ盗ってね。アメリカが早く進駐してくれれば良かったんだがあそこまで手がまわらなっかたんでロシアが入ってきて盗られちゃった。

もう一つこっちにはシナがある。あれシナっていうとみんないやがるんだね。シナのね、この間英語のインターネット見たらシナ人が書いてあるページでシナの事シナとsinaと書いてある。中国というのは岡山県と広島県の事だよ。(笑)なんでね。シナというといやがるのかね。あれは孫文が決めた言葉ですよね。英語でもチャイナでしょ。フランス語でシームでしょ。スペイン語でチムでしょ。ほいでね、日本人だけが中国っていうの。

しかもそのシナがですねな、核を開発してあのタクマラカンとゴビ砂漠で核開発をやった時どれだけの放射能が日本に降ってきました?日本の政府は知って知らないふりして隠したんです。それくらい中国の放射能を放ってきた。今になって福島の原発が放射能を起こすと地域でもね、ヒステリーみたいになってね。変なムーブメントあります。原発の話はこれでしませんがね、いずれにしろ、国境を接っしたり、国境を奪われたり、同胞を殺されている。この3つの国に国境を接していて、相手は核を持っていて日本は持っていない。こんな地政学的な条件におかれている国家が世界にありますか?

日本の防衛をどうするかという問題はこれからますます大事になってきます。ズーとアメリカさんのおめかけさんできたんだから、なんでもお願いする。もうこんな時代は終わらなければいけない。私はやっぱりすごいなーと思ったのはあの沖縄返還をやった時、非核三原則「持たず、作らず、持ち込まず」これ佐藤さんが言い出して断固としてこれは当然だといった。私はこの時、参議員だったので予算委員会で「持たず、作らず、持ち込ませず」はあほの語呂合わせみたいでね、「持たず、作らず、だったら持ち込ませなければダメじゃありませんか」と言ったら「余計な事言うな。これは自民党の党是なんだから批判だったら自民党辞めたまえ」って私、佐藤さんよく知っていたから向こうもね、半分冗談、半分本気で言ったんでしょうが。

その佐藤さんが小笠原諸島を取り戻した時にね。あの時のアメリカのジョンソン大統領に「日本は核を持ちたいんだ。アメリカの協力で持たせてくれ」と言ったんだがアメリカは一応断るんですな。でも非核三原則が出てきても、いざと言う時持ち込むのは当たり前じゃないですか。アメリカの基地はいっぱいあります。飛行機もたくさんあるわけだ。わかすぎけんという私の親友が結局密約でいざという時は黙って持ち込み、日本の政府も認める。

(「持たず、作らず、持ち込まず」)そんなの嘘の話でね、沖縄が返還したときから壁の厚い話でね。私はアメリカをおどかしてある核兵器をみせてもらいました。昔からある。今でもある。そんなもの知って知らぬふりしてればいいんだ。なきゃあ困るだろうこっちは。

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秋田県特別攻撃隊招魂祭-「言うなかれ 君を わかれを」part2

もう一名、特攻で亡くなられた秋田県の方を紹介します。

海軍少尉 高橋正(20歳)様 秋田県秋田市外旭川朝鮮
昭和20年4月12日 神風特別攻撃隊第28幡護皇隊艦攻隊員(30名)として沖縄周辺海上敵艦船群に体当たり攻撃を敢行す。搭乗機は「彗星」

      「遺筆 両親への手紙」(出来るだけ変えずに現代語訳にしました)

      命があったら又書こうと思います

拝啓 永い事ご無沙汰致し本当に申し訳ありません。夏も終わりに近づき朝夕涼しい風が吹き始めました。其の後父上様、母上様、多栄子には益々ご健勝にて毎日をお過ごしの事と存じます。私も元気いっぱいにて頑張っております。長かった訓練時代も終わりに近づき、今や出撃命令を待つばかりになりました。1年数ヶ月と云えば短いようで永い月日でした。戦場は南になるか北になるかわかりませんが、一たん出撃の暁は大いに敵さんをやっつける覚悟です。

海山より深く高き御両親の御恩生まれて20年の今、しみじみと有難く感じております。今迄の御恩どう御礼申し上げてよいやら御礼の言葉がありません。この御恩は決してわすれません。物も無い金も無い吾々搭乗員には、敵機撃破、敵艦轟沈の腕が唯一の財産です。こんどこそ万分の一の御恩返しが出来ると思っています。これが私の最初のそして最後の御恩返しかもしれません。

生を受けなつかしの故郷を遠く幾百里、知った人も肉親もおらぬ日本の涯に来てしみじみと肉親の有難さが身にしみます。しかも欲も希望もゆるされません。吾々搭乗員はすべての私情をすてて大義の道に生きねばなりません。お父上様もお母上様もきっとゆるして下さると信じています。私は愛機に身をたくし、毎日毎日黎明より薄暮まで遠い数百里の彼方迄、太平洋上を飛んでおります。男と生まれた生き甲斐を痛切に感じます。身は太平洋の藻くづとなるも何の悔ゆるところなしです。私は私の最大の働きをする覚悟です。戦地勤務になりますればもう便りも出されんでしょうが極力消息はお知らせするつもりです。私はいつも元気で働いていると思って下さい。

お父様の御病気の様子は私にはわかりかねますが早くご快復下さいます様十分の御養生をお進め致します。
出陣前に一度ゆっくりとお話し致したいと思いましたがあきらめました。
お父上様、お母上様、多栄子さんの面影を頭に刻んで勇躍基地に向います。前線出撃は死の第一歩です、命があったら又書こうと思います。乱筆乱文おゆるし下さい                      敬具     忠

父上、母上様

私は涙なしにこの文章を写す事ができませんでした。そしてこれだけの資料を調べられたM氏の情熱は並大抵ではないと思いました。特攻隊の彼らは皆、靖国神社に奉られています。しかし秋田県人が秋田県の先人に対し、これだけの畏敬の念と哀悼を持つ事は本当に素晴らしい事だと思います。

そしてさらに重要な事は特攻隊として出撃していった彼らの事です。チャンネル桜のキャスターの三輪和雄氏は次のように仰っていました。「どこの国にだって自分の国の為に死ぬという人はいる。(中国はわからないが)しかし他の国の人は、死ぬとはいうもののどこかで生き残れるという思いがある。しかし、特攻隊だけは必ず死ぬ。公の為に死ねるのは日本の特攻だけである。今現在、日本は世界になめられている。しかしこれ以上なめられないのは、ある一線を越えると日本人は最後は戦ってくると思っているからだ。現在の外交にもまだ特攻隊の見えない遺産があるのだ。そしてそういった精神は今日の大震災のさなかの日本人の行動の中にも見る事ができた」と。

私達の先人-特に特攻隊員の若い若い方々の日本を思うその心に、今の私達は対面する事が出来ないと思います。政治は今、戦後最低の首相である菅総理がやっています。マスコミは朝鮮放送だか、中国放送だかわからない状態です。思えば三島由紀夫氏は昭和45年時にもうこの事態がわかっていたのでしょう。

今、私達を支えているのは、天皇陛下、皇后陛下と自衛隊、そして左傾化していない日本人の精神だけだと思います。私達は戻らなければいけないと思います。いまこそ復興するのではなく「真正日本」に復活するまさにその時期ではないか!と私は思います。

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秋田県特別攻撃隊招魂祭-「言うなかれ 君を わかれを」

4月29日(金)に秋田県総社神社で行われた「秋田県特別攻撃隊招魂祭」に行ってきました。これは4月23日に予告を入れた行事です。当日の秋田は晴々とした明るい日差しのある日でしたが風が強く、少し肌寒い1日でした。
1式典はM氏の立てた慰霊碑の前で行われました。正午から式典が始まる予定になっていました。式典にはこの特攻に関わられた親族の方、また生きて戻られた方、またそういう歴史に造詣の深い方、チャンネル桜のキャスターの方々(三輪和雄氏、西村幸祐氏、小山和伸氏、富岡幸一郎氏、葛城奈海氏)が参列されました。この式典に合わせて昭和天皇御誕生記念祭も同時に行われました。2
式次第は昭和天皇武蔵野御陵遥拝に始まり、国家斉唱、神事、大西中将遺書朗読、玉串拝礼、昇神で神事を終わり、皆で聖寿万歳を叫び、「海ゆかば」を合唱して終わりました。

式典の中にある大西中将とは大西瀧治郎海軍中将の事であり、戦争末期第一航空隊司令長官として、神風特攻隊を指揮。終戦直後、その責任をとり次長官舎で割腹自殺した方の事です。そしてその責任とは敗戦の責任ではなく、多くの花も実もある将来のある若者を自分の命令により死においやってしまった事に対する懺悔と哀悼と思われます。大西中将遺書とは次のものです。
[特攻隊の英霊に曰す 善く戦いたり 深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ
共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

次に一般青壮年に告ぐ、我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副ひ奉り自重忍苦するを賊ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。諸子は國の寶なり、平時よ慶し、猶ほ克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の和平為最善を盡せよ。特攻隊の立派な霊たちに告げる]

現代語訳
今までよく戦ってくれた…ありがとう… 心から君たちに感謝する。君たちは日本の最期の勝利を信じて、肉の玉として散って行った… しかし…君たちの尊い信念は遂に達成することは叶わなかった… 私は自らの死をもって、君たちと君たちの遺族に謝罪する。
   
次にこれからを生きる戦後の日本青少年たちに告げる。私の死は軽々しい行動を取り、利敵行為となってしまうから。私の死は陛下の尊い決断に従ったものだ。だから、これが自らへの戒めだと思ってくれれば嬉しい。戦後を生きる日本人たちよ、これから苦しい時代を生きるだろう… だが、どんなに苦しくても日本人としての誇りを決して失わないでほしい。日本の子供たち!君たちは「日本という国」の宝だ。どんな時も、「絶対くじけないんだ!」という特攻精神を持ち続け、日本全民族の福祉と、世界の平和の為に…最善を尽くしなさい。

3この後、場所を「ふみき会館」に移しチャンネル桜のキャスターの方を中心に今日の招魂祭についての感想とこれからの日本についてのシンポジウム「日本を守るという事!」闘論!倒論!討論!in秋田が行われました。会場にはすでにこのシンポジウム参加者が待っていてかなりの盛況でした.

そしてチャンネル桜のキャスターの方は皆一様に、先の大戦において亡くなった方を祭る式典はたくさんあるが、この秋田のように特攻隊員のみを慰霊しているのは、たいへん珍しい事だし、素晴らしいことだ。そしてそれが20年という長さで行はれているのは秋田県人の祖先を敬う素晴らしい特性だと盛んに褒めていました。4
私はこのすべてがM氏の思いから始まっている事に感動してしまいました。そしてM氏の息子さんに「秋田県の特攻隊員」という1冊の本を頂きました。その本により今日ある式典はM氏が昭和48年に会社の取締役会で秋田県の戦没者の顕彰を社業として実施する事を決議した事にはじまっている事を知りました。その思いをM氏が皆に提案した事も、それを決議した事も、それをやり遂げた事もすべてM氏の深い特攻隊員達に対する哀悼であると改めて思いました。

そしてその本の中から特攻として亡くなられた秋田県の方々を少しだけ紹介致します。

海軍中尉 植村正次郎(26歳)様 秋田県本庄市鍛治町
昭和20年3月21日 第一神風桜花特別攻撃隊神雷攻撃隊員(160名)として本土南方海面の正規航空母艦六を基幹とする敵機動部隊に対して必死必殺の体当たり攻撃を敢行する。

      「遺筆 妻への手紙」(私が現代語訳にしました。本文は旧仮名づかい等になっています)

      俺の気持ちはお前がよく知っている
      
今までいろいろ苦労をかけた。俺ばかりわがままをして、お前に楽をさせる事もなく、何処へも連れて行かず、いつもいつも貧乏ばかり、よくやってくれた、感謝する。今度は生還できないと思うが芳之を頼む。ぼんぼう(方言で子供の事)だけど、それだけ頼りにもなる。義姉さんと仲良く相談して、うまくやってくれ。俺の気持ちはお前が良く知っている事と思う。(この文章の事)見たら焼け。口で言えば涙がでる。さようなら。   夫。
妻へ。

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