カテゴリー「自衛隊」の記事

大人社会のイジメー自衛隊

あの激烈な東日本大震災時の救援活動の素晴らしさで、一躍日本のみならず、世界から賛辞と賞賛を受けた自衛隊だが、巨大組織には必ず闇の部分が内包されている。実はこの話題のブログ化には躊躇もある。しかし以前書いた富士学校での暴行事件を含めイジメが無いとは言えない。また、私自身が接する自衛隊員は皆、心優しく暖かい人ばかりなのだが、組織全体として、曇りなく本当に国民から感謝される組織になってほしいという願いを込めて、あえて闇の部分-大人社会のイジメに該当する部分の一部を記載する。現在、自衛隊としては下記旭川市の事件を受け、あらゆる自浄活動が行われているという。

【尻にアイロン、股間に洗濯挟み…自衛隊 陸曹候補生11人に暴行】2012年5月15日

北海道旭川市の陸上自衛隊第2師団は5月15日、陸曹になる前に実施する教育課程で昨年9月、22~30歳の陸士長11人に余熱のあるアイロンを尻に当てるなどの暴行を加えたとして、2等陸曹(33)を停職60日、1等陸尉(40)を停職16日の懲戒処分とするなど、5人を処分した。

第2師団によると、2等陸曹は集合時間に遅れた陸士長の左太ももをけり、3週間のけがを負わせたほか、6人に人間ピラミッドを組ませた上で余熱のあるアイロンを尻に当てたりした。1等陸尉は陸士長2人に対し、下着の上から洗濯挟みで股間を挟んで引っ張るなどした。

また、教育課程の時間外に激辛のペッパーソースを付けたポテトチップスを女性陸士長ら2人に食べさせた3等陸曹(29)や、暴行を黙認した3等陸曹2人も1~7日の停職処分とした。

第2師団は「今回のような事件を起こしたことを遺憾に思う。再発防止に努めたい」としている。

                                                          
【陸上自衛隊北熊本駐屯地(熊本市)で新入隊員暴行】2008年10月17日             
            
陸上自衛隊北熊本駐屯地で16日、戦闘服にアイロンがけをしなかった新入隊員を殴ったなどとして、第8特科連隊の陸士長(23)と3等陸曹(26)の2人を同日付で減給1カ月の懲戒処分にしたと発表した。隊員にけがはなかったという。同駐屯地によると、2人は今年入隊した隊員の教育係をしていたが、7月23日夜、戦闘服のアイロンがけをしていなかった隊員3人の顔を陸士長が平手で1、2回殴打。翌日朝に報告を受けた3等陸曹も、3人を含む隊員5人をほうきの上に正座させた。ほかにも清掃中の雑談などを理由に殴ったケースもあった。2人は「何度も注意したが従わず、態度を改めさせるためだった」などと話しているという。

                                                         
【海上自衛隊かわいがり事件発覚】2008年10月14日

海上自衛隊の「特別警備隊」内で隊員の死亡事故が発生した。現場は隊員を養成する江田島市の第1術科学校だった。そこは旧海軍兵学校。海上自衛隊に名称は変わったが海軍魂が脈々と受け継がれている。特別警備隊は1999年、能登半島沖で北朝鮮の不審船を取り逃がしたことに端を発し2001年3月に江田島基地に正式に組織された。

特別警備隊の隊員を養成する学校は、海上でのテロ組織との戦いを想定しているので、命の危険性が伴う為に非常に厳しい。強靭な肉体と精神を養わなければいけない。その為、特別警備隊に入隊するには自らの志願を必要としている。

そういった過酷な訓練の為、自ら志願しながらもについて行けない者も出る。そういう根性のない者を「異動のはなむけ=かわいがり」と称する、集団で訓練という名のリンチを加えることが、常態化していた。1人で15人と格闘技を行わなければならないものだった。1人50秒ほどだが、何度も何度も倒され、立つのがやっとの状態にさせられる。

死亡した隊員は、14人目であごにパンチが当たり意識を失い、2週間後に急性硬膜下血腫で搬送先の病院で亡くなった。


【暴力が横行する陰惨な自衛隊の実態 空自小松基地暴行失明事件】2007年8月

航空自衛隊小松基地(石川県)で2007年8月、酔った上官が「指導」と称して部下に激しく暴行を加え、顔を骨折、左目失明の重傷を負わせる事件が起きた。被害者は発見当時、顔や鼻から血を流し、首を絞められて気絶状態だったが、病院に搬送されたのは約2時間後。さらに警務隊が重い腰を上げたのは発生から3週間後だった。「幹部らは事件が表ざたになることを恐れていた。もし私が死んでいたら『喧嘩』で処理されたかもしれません」と、被害を受けた隊員は憤る。暴力事件で懲戒処分になった自衛官は、2007年度一年間で60人を超えている。        、

                                                          
【たちかぜ自衛官いじめ自殺事件】2004年10月27日

たちかぜの一等海士(当時21歳)が立会川駅で飛び込み自殺をした。遺書には、家族への感謝の言葉と共に、上職の二等海曹・佐藤治を名指しし「お前だけは絶対に許さねえからな。必ず呪い殺してヤル。悪徳商法みてーなことやって楽しいのか?そんな汚れた金なんてただの紙クズだ。そんなのを手にして笑ってるお前は紙クズ以下だ。」と、いじめを示唆する内容が書かれていた。

このことからたちかぜ艦内の問題が発覚した。横浜地方裁判所横須賀支部刑事部は、「いじめは艦内では日常茶飯事、常習的で、本件は氷山の一角」「暴行を苦にしたとみられる隊員が自殺したのをどう償うのか」と、海自と佐藤の「行為」を認定した。

                                                       
自衛隊組織のイジメは上記のものにとどまらない。皆さんの心の中にはあの東日本大震災での自分の命さえ顧みず被災者を救おうとする心優しき自衛隊員が目に浮かぶかもしれない。それはそれでよい。多くの自衛隊員は実際にそうなのだから。この話は自衛隊でもイジメはあるという事だ。

つまりは大人社会こそが「イジメ社会」であるからなのだ。

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福島の英雄達~スペインの「アストゥリアス皇太子賞」

本年度のスペインの「アストゥリアス皇太子賞」(平和部門)を東京電力福島第一原発の事故対応にあたり事故に立ち向かった自衛隊員、警察官、消防隊員が受賞しました。「逆境の中での日本人の勇気と責任感」が世界に認められたのです。

10月21日(木)スペイン北部オビエドのカンポアモール劇場で授賞式がありました。授賞対象となった人は3グループに分かれ、現場対応にあたった東京電力従業員や関連の作業員、原子炉の冷却作業で放水にあたった消防隊員と、原子炉上空からのヘリコプターによる海水散布をした自衛隊員や、高濃度の放射能汚染で立入禁止区域に指定された地域からの住民避難に尽力した警察官の方々でした。

授賞理由は、「彼らは自らを犠牲として、津波による核災害がその壊滅的影響を何倍にも拡大させることを阻止した。自らの身にも深刻な影響がもたらされる恐れも顧みず、彼らは決断を下し、人としての最も崇高な価値を示した」と説明している。

この賞は福島第1原発事故で初期対応にあたったすべての自衛隊員、警察官、消防隊員に与えられた賞ではありますが、代表として東京消防庁から1名、警察官から1名、自衛隊員から2名、福島県警から1名の計5名が出席しました。

皇太子は授賞式で「フクシマの英雄たちの勇気と強さに感銘を受けました。献身的精神は世界の模範であり心から敬意を表します」と述べた。画像は次のものをどうぞ。1

横に並んでいる順に左から東京消防庁の冨岡豊彦消防司令、警視庁の大井川典次警視、陸上自衛隊岩熊真司1佐、陸上自衛隊の加藤憲司2佐、福島県警の渡辺正巳警視です。

冨岡豊彦消防司令は3月18日に現地入りし、福島原発3号機への連続10時間以上の放水を成功させる一翼を担った消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)の司令長です。

警視庁の大井川典次警視(警視庁警備2課課長代理)は3号機への放水を現場で指揮しました。
福島県警の渡辺正巳警視(前双葉署長)は事故発生当時、住民の避難誘導にあたりました。

陸上自衛隊(陸上自衛隊中央特殊武器防護隊長)岩熊真司1佐は、福島第一原発で地上からの放水や除染活動を指揮しました。陸上自衛隊の加藤憲司2佐(第1ヘリ団第104飛行隊長)はヘリからの放水を指揮しました。

5人の代表として東京消防庁の冨岡豊彦消防司令(48)が「フクシマの英雄たちという称号は全日本国民に対するものと確信しています」と述べると、会場から大きな拍手がわいた。

映像がありましたので追加します。

この大災害の中でも、冷静に日本を守った警察官、自衛官、消防隊の皆さん本当におめでとうございます。

そしてこの賞は自衛隊員、警察官、消防隊員だけに与えられたものではなく、この大災害の被災者の一人一人の皆さんのけなげさと気丈さと潔さと献身をも称えるものだと思います。被災者の皆さん、世界中が応援しています。負けないで下さい。

さらには、この栄誉は、被災者達を支えた、名も無きボランティアの方々や寄付をしたすべての方々が示した「人間の善意」に与えられた賞だと思います。

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自衛隊員を救った手紙part2~災害派遣総括

うみちゃんからの手紙全文Photo

「じえいたいさんへ。げん気ですか。つなみのせいで、大川小学校のわたしのおともだちがみんな、しんでしまいした。でも、じえいたいさんががんばってくれているのでわたしもがんばります。日本をたすけてください。いつもおうえんしています。じえいたいさんありがとう。          うみより」

井上旅団長はこの手紙を次のように振返っている。


この手紙を見た時、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。小学校1年生と聞きましたが、『じえいたいさんががんばっているのでわたしたちもがんばります』とか石巻といった地域ではなく『日本をたすけてください』という被害の甚大さを理解した言葉に本当に感激致しました。そして『どんなことがあっても全員を探し出すぞ』という思いがみなぎってきて、この手紙のコピーを旅団の隊員や他部隊に配布させました」

多くの隊員達はそのコピーを手帳などに挟んで、「心」の支えとして持っていたという。その手紙は現在、旅団司令部(香川県善通寺市)の玄関ショーケースに展示されている。動画は次のアドレスをクリックして下さい。画面に映っているのが井上旅団長です。http://youtu.be/m2GCpq9R-jY

そして他の地域の多くの部隊が同じような経験をもっている。宮城県を撤収する時、久納第6師団長(山形県東根市)は「精神的にも肉体的にも極限に達している時があったが支えとなったのは『自衛隊ありがとう』の励ましの言葉だった」とお礼を述べた。

自衛隊が被災者を救っただけではなかったのである。被災者のその気丈な気高さは自衛隊員に元気を送っていたのである。そこにはのちに言われる「絆」が生まれていたのだ。

「自衛隊ありがとう」のコールは被災地の現場だけでは無かった。4月から陸上幕僚監部は陸上自衛隊ホームページで「ツイッター」を実施。陸上自衛隊の活動内容や写真を情報発信したところ1ヶ月で13万人がフォロアーとなった。防衛省や海上自衛隊を加えると約20万人となった。

また応援メッセージを募集したところ、約4500通のメールやファックスが届けられた。また、それぞれの駐屯地にも数えきれない応援と感謝に溢れたメールやファックスが届けられた。これらは「国民の応援メッセージ」として自衛隊員達に配られた。国民と自衛隊との距離がこれほど身近な存在として感じられたのは戦後初といえる。左翼的戦後日教組教育の中で、自衛隊は戦争をイメージさせるネガティブなイメージをつけられていたが、それが崩壊したのである。自衛隊はそんなものではない。自衛隊員の「心」は温かさに満ちているのだ。

しかしでは何故これだけ身近な存在になれたのか?

それは次の2点に集約される。

1、惻隠の情-他人のことをいたましく思って同情する心。これは人の最高の徳である仁に通ずる情の事。

2、献身-自分の利益を顧みないで、他者または物事のために自己の力を尽すこと。

日本人は本来この徳を持っていた。しかしこの日本人らしさは長く表現される事がなかった。東日本大震災では、その徳を自衛隊員だけではなく、被災者達もその徳をはっきりとみせてくれた。私達は日本人なのだ。日本人は日本人らしくあればあるほど徳の高い民族なのだ。

この度の震災は悲惨な、悲惨なものだった。しかしこの悲惨な出来事は私達に日本人の誇りをはっきりとめざめさせてくれた。だから私達が本来の日本人の心を取り戻しさえすれば、必ずもう一段高いレベルの世の中を作れるはずだ。

ここでもう一度宮城県階上中学校の卒業式で読まれた答辞を載せて終わりにしたいと思う。彼の言葉がすでに
すべてを語っている。

梶原裕太君の答辞全文

【階上(はしかみ)中学校と言えば防災教育と言われ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私達でした
しかし、自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私達から大切なものを容赦なく奪っていきました。
天が与えた試練というにはむごすぎるものでした。つらくて悔しくてたまりません。
しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助けあって生きて行くことがこれからの私達の使命です】
詳しくはコチラへ。

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自衛隊員を救った手紙~災害派遣総括

防衛省は8月31日、東日本大震災での自衛隊の大規模災害派遣を終了した。福島県のみ、福島第一原発事故への対応や生活支援の為、東北方面隊が行っている。規模は200人。

派遣された延べ人員約1061万人、派遣期間174日に及び、自衛隊創設以来、最大の災害派遣となった。「史上最大」といわれるその代表的データーをまとめたので次の数字をご覧下さい。

東日本大震災の災害派遣延べ人数

              東日本大震災          阪神淡路大震災

人   員       約1,061万人          約172万人
航 空 機       約49,000機          約8,100機
艦   艇         約4,780隻             約700隻
  
       活動内容
人命救助          19,286人            165人
ご遺体収容            9,504体          1,252体
給水支援         約32,985t        約28,910t
入浴支援        約1,085千人         約515千人
給食支援        約5,005千食           約5千食
道路啓開            約483km            約34km

自衛隊隊員達はまさに被災者の「命」そして「生きる」事そのものを支えてきた。そしてその活動は多くの日本人に勇気と力を与える事となった。自衛隊員は英雄になった。

スペインのアストゥリアス皇太子財団は2011年9月7日、福島第1原発事故の現場で活動を続けた作業員や消防隊員、自衛隊員らにスペイン皇太子賞(平和部門)を贈ると発表した。同財団サイトをみると、「フクシマの英雄たち」が受賞したとして、防護マスク姿の作業員らの写真が載っている。受賞理由は「逆境の中での勇気、任務への責任感や人々の幸福を守る使命感を世界中へ示した」としている。詳しくはコチラへ。

しかしあまり語られる事はなかったが、自衛隊員も人間として苦悩していた。 自衛隊員は皆、疲労困憊の中にいた。多くのご遺体を見るにつけ、そして触れるにつけ、その「心」は何度も折れそうになっていた。それは多くを語らない息子からも聞いたし、仲間の自衛隊員からも聞いた。

中には本人の両親や家族友達が行方不明になったりして、悲しみのどん底にありながら気丈に活動する隊員の話や、心が折れてしまい自殺した隊員もいたとのことだった。こういった話は英雄話の裏で報道される事は無かった。それは被災にあわれた人達への配慮だったのかもしれない。しかし、自衛隊員は皆、心で泣いて、顔で笑って日本を救った。

それは自衛隊だけではなく、警察官も消防隊員も同様だ。そしてその折れそうな心を救ったのが、被災者の方々からの「ありがとう」の言葉だった。中でも自衛隊員に届けられた子供達のメッセージは隊員達の心を掴み、この災害派遣をまっとうする勇気を与えた。

その代表が、全校児童108名の約7割が死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小学校の児童「うみ」ちゃんからの手紙だった。その手紙は当時大川小学校近傍で捜索活動にあたっていた第14旅団(香川県善通寺市)第14戦車中隊の隊員に渡され、その日のうちに井上第14旅団長へ報告された。その手紙は井上旅団長を感激させ、すぐさまコピーを旅団の隊員や多部隊に配布する事となった。
                                                        to be continud 

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「ありがとう」自衛隊-第10師団宮城から撤収

5月23日(月)宮城県南部の4市9町で災害支援活動を行なって来た陸上自衛隊第10師団(名古屋市)が一部を除いて帰隊することになり、主な活動の舞台になった名取市、岩沼市、亘沼町、山元町で、お別れのセレモニーが開かれました。山元町でのセレモニー映像は次のものをどうぞ。(画像は消されてしまいましたので削除します)

第10師団は震災直後から被災地入し、最大3800人が移動日を含め75日間派遣され、延べ動員約22万人、給食は約34万2千食、給水は約3900トン浴場利用者は9万9千人に達しました。

山元町では午後3時40分から山元町役場前でセレモニーが開かれ、感謝の横断幕を手にした町民ら約千人が詰めかけ、約40台の自衛隊車両を「ありがとう」の言葉と共に盛んに手をふって見送った。

この大震災にあたり懸命の救援活動にあたってくれた自衛隊の方々に心から感謝をするとともに、別れのほろ苦がさを感じるものであった。

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永すぎた春

自衛隊の息子はこのたびの震災支援の為に、5日被災地での捜索活動を行い、5日目の夜に帰ってきて、翌日が休み、そしてまた次の日から被災地に行って仕事をするという日々を送ってきました。

このブログを初めの方から読んで下さっている皆さんはわかると思うのですが、息子は去年平成22年12月14日に幹部候補生学校を卒業したばかりで(詳しくはコチラへ)やっと赴任地に着き少しその土地柄や人間関係になれたかなというまだ自衛官と呼べるようなものではありませんでした。

息子は幹部候補生学校においては最年少であり、また足も遅く、仕事ものろく、よく叱られ、出来ないと校庭を走らされていたそうです。朝おきても服装を整えるのが遅いと言われては走らされ、靴が磨けていないといわれては走らされていたのです。隊は5人編成で息子は大学卒で入学しましたが、ほかの隊員は皆、防衛大学卒業でそのあたりは慣れたものだったのです。

そして校庭を走り終えた息子は、シャワーを浴び着替えてやっと食堂に行くともう片付けられていて、何度食事を食べないで、授業に行ったかわからないという状態でした。それでも回りの隊員達からは「やつはノロマなんだから」と言われ、構われもせず、助けられもせず、とうとうメンタルへルスの教官に泣きながらその惨状を訴え、なんとか、授業が始まってから講師が「○○君、食事がまだなら食べてきていいよ」といってもらえるようになったそうです。

幹部候補生学校時代は本当に忙しそうで電話1本かけられず、メールでどうにか最低ラインのコミュニケーションが取れていたというかんじです。息子は中学生時代から自衛隊にはいりたがり、防衛大学によく受かる高校という事で志望校も決めていました。そしてその為に進学クラスであるにもかかわらず、柔道部に入り勉強との両立をめざしました。(剣道は小学校からならっていましたが)

しかし、柔道部の練習はきつく、成績の方が少しずつ下がってしまいました。その結果、防衛大学は不合格、公立大学は合格したので、在籍のまま翌年も防衛大学を受験、それも不合格、そしてその翌年も大学に入りながら防衛大学を受験するもまた不合格、大学3年に猛勉強をしてようやく一般大学から合格する事ができたのでした。その為に、ほとんど勉強づけの日々を送る事になりました。しかしその為に運動不足を起こしていたのです。

当時、幹部候補生学校のその苦労を聞いて知っていた私はただ胸を痛め、眠れぬ心配な夜を過ごすだけでした。私自身、息子の運動神経の悪さはよくわかっていましたから。ただそれを克服しなければ自衛官として任務を全うする事はできないとも、遠い頭のずっと先のほうでは思っていました。しかしそう思いながらも私はただの親馬鹿で息子の事を心配するばかりでした。

しかし、息子は幹部候補生学校では4回の筆記成績があるのですが1回目と4回目は成績順位は発表されなかったのでわかりませんが、2回目は全隊員356名中、10位、3回目は4教科試験の内2教科で1位という快挙をなしとげました。でも特殊部隊やレインジャー部隊のある自衛隊ではそれほどの評価は得られなかったそうですが、私はいつも「よく頑張った。えらい!えらい!」と思ってしまいます。もしこのブログを読んでる幹部候補生学校にはいったご子息、また現在幹部候補生学校にいってらっしゃるご子息をお持ちの親御さんはどのように感じるかわかりませんが、もし気にさわるようならすみません。

そして赴任をして3ヶ月目位の3月11日に東北関東大地震が起こりました。そして、その為その日の内に派遣の準備をし、次の日から息子は被災地に向っていきました。

息子は赴任してからは駐屯地内で寝起きをしていましたが、幹部として3月19日には営内から出て暮らす予定になっていました。それが震災の為に営内からはでられず(もちろんそれを批判しているわけではないのです)連絡さえ取れなくなりました。人としては被災者の悲劇に涙しながら任務をまっとうしてもらいたいと思い、父としては息子ひとりを心配していました。

その息子からきのう連絡があり、被災地への支援は1週間行き、次の1週間は休みというふうにシフトが変わったという事と、今月末から営外の官舎に住めるという嬉しい知らせがありました。震災対応もようやく少し余裕が出てきたようです。

我が家にもようやく春がきたような、安堵感と幸せをやっと感じる事ができました。
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大震災, 自衛隊 |

自衛隊の支援-これまでの総括

3月11日に起きた東北関東大震災における自衛隊の支援はそろそろ少しづつ人数を減らし、本来の国防にシフトする時期に入ってきました。それでもいきなり撤退するような心のない撤退を自衛隊はしません。被災者の心が癒えるまで待ちながら、少しづつ動員を減少していくことでしょう。

それでは現在までの10万人支援体制とはどのようなものであったのか、書き残したいと思います。(第9師団報道発表資料より)

陸上自衛隊の東北方面隊は、北東北(青森・岩手・秋田)3県を受け持つ第9師団、南東北(宮城・山形、福島)3県を受け持つ第6師団がありますが、それに全国各地から下記のように応援部隊が駆けつけました。

首都を守る第1師団、関西圏の第3師団、新燃岳の災害派遣に当たる第8師団は本来の任務地に張付ですから、交代はしないで支援しました。そのほかは、全国から被災地支援に大勢の陸・海・空自衛隊員が派遣されています。交代制になっている為同じ隊員ではありません。

支援体制は下記のようになっています。

岩手県北部 陸上自衛隊第2師団(北海道旭川市)

岩手県南部 陸上自衛隊第9師団(青森・岩手・秋田の部隊 青森県青森市)

宮城県仙北 陸上自衛隊第6師団(宮城・山形、福島の部隊 山形県東根市)

宮城県北部沿岸部 陸上自衛隊第4師団(福岡県春日市)
         第14旅団(香川県善通寺市)
         第5旅団(北海道帯広市)

宮城県仙南地方 第10師団(愛知県名古屋市)

福島県北部  第12旅団(群馬県榛東村)
         第13旅団(広島県安芸郡海田町)

次の映像は、自衛隊・護衛艦たかなみ 救出園児からの「ありがとう」 です。

当たり前のように小中学校に迷彩服の自衛隊が入り、支援活動を行い、行政や、教員、自治会や避難民も一緒になって給食の準備や搬入搬出、後片付けを肩を並べて行っています。避難所となっている学校の校庭にはヘリコプターから見えるよう、「ありがとう」と石灰で書かれていたという話も聞きます。日教組の組合教師はどうか分かりませんが、自衛隊は被災地での生命線であり、被災民の誰もがそのことを実感しています。

4月13日 大船渡市盛小学校の教員約10名及び生徒約80名に対し、学校側からの要望に基づいて自衛隊が装備している野外入浴セットの紹介を行いました。また、盛小学校で入浴支援を担当している自衛官に対して、生徒約140名が参加しての「ありがとうセレモニー」が催されました。

また、4月15日 大槌町吉里吉里小学校及び安渡小学校において児童及び避難者の皆さんに対し、第9音楽隊が激励演奏会及び交流会を実施しました。

また、空港や港湾のインフラ復旧の現場でも、自衛隊と行政、民間が同じテーブルで作業に当たっています。
こうした大人も子供も、軍・官・民が一体となった光景を繰り返し見聞きしながら、不思議な感覚にとらわれます。それはかつての大東亜戦争中、サイパンや沖縄では、また空襲下の日本の都市では、このようにして私たちの先輩たちは、軍隊が日常の一部として、また不可欠な組織として存在し、共に困難に立ち向かっていたのではないかということです。

かつて早稲田大学教授の松原正氏(松原正氏についてはコチラへ)が「我々の自衛隊」ということを言いましたが、今回の震災における自衛隊の存在は、そのことを多くの国民に印象付けたことだと思います。

被災民同士の略奪暴行が発生しない、支援物資を我先にと奪い合わないということは、諸外国と異なる日本国民の民度の高さを証明するとともに、復興のあり方が被災地の人々の郷土愛や尊厳を最大限尊重しながら進めることで可能となることを示しているように思われます。もちろん略奪暴行が1件もないわけではない事は私も知っています。しかしその度合いはわが国の民度を貶めるとは思っていません。

今回の震災では繰り返し「自助・共助・公助」というフレーズが語られましたが、その均衡の度合いにより、復興の成否が問われると感じました。

そしてその度合いから私達は必ず立ち直り、まっすぐに輝く未来に向うと思います。先人達と同じように!

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自衛隊の捜索現場襲う惨事ストレス-「もう限界。家に帰して…」

泥にまみれて行方不明者の捜索を続ける自衛隊員。凄惨な現場での活動で惨事ストレスを受けている恐れもあるという。東日本大震災で被災地に派遣され、遺体の捜索・収容作業に当たっている自衛隊員や海上保安官、警察官の「心のケア」が課題となり始めている。これまでに1万人近い遺体を収容するなど奮闘してきたが、一方で凄惨(せいさん)な現場で受けた精神的ショック(惨事ストレス)から心的外傷後ストレス障害(PTSD)のような症状を訴えたり、奇行に走るケースも出ており、各省庁では惨事ストレス・ケアに乗り出した。

 「もう限界です。家に帰していただけませんか」

西日本の部隊に所属する陸上自衛隊の30代の男性自衛官は、部下の切実な訴えに接するたび、心に重圧がのしかかる。震災直後に被災地入りし、数十人の部下と続けたテント暮らしはまもなく2カ月を迎える。主な任務は沿岸部での遺体の捜索活動。これまでに数十人の遺体を収容、自治体などに引き渡した。

住宅のがれきの下では、全身に傷を負った親子とみられる若い女性と5~6歳ぐらいの女の子の遺体を発見していた。「もしこれが自分の妻と子供だったら…」。思わずつぶやいた同僚は、夜になるとテントの中でうなされていた。

春を迎えて日中の気温が上昇し、日を追うごとに発見される遺体の損傷は進んでいる。交代もままならず、「精神的にまいってしまい、前線を離れる隊員が多くなった」。「幼い亡骸(なきがら)を目にすると、わが子とダブってたまらない…」(SANKEI EXPRESS)

私の息子も自衛隊員としてこの震災に災害派遣を行っていますが、その問題は少し気に掛けていました。息子は3月11日に震災がおきてからすぐ災害派遣の準備を始め、次の日から被災地に向いました。そしてそのまま5日間作業をし5日目の夕方駐屯地に帰って来て、その日は駐屯地から外出禁止、そしてその次の日は1日休み、またその次の日の朝から派遣現場に向うというシフトでした。もちろんそのローテーションなので日曜や休日は関係なくシフトはきちんと守られていました。

そしてみなさんご存知かどうか、宿営地にテントを張り、4人ひと組で迷彩服を着たまま寝袋に入って寝ています。食事は冷たい缶詰のご飯と缶詰のおかずだったそうです。暖かい食事を作ってもそれは被災者の為であり、暖かいお風呂を沸かしても被災者のためであり、息子達は5日間風呂には入らないシステムだそうです。災害から1ヶ月を過ぎやっと暖かいご飯やおかずになってきたそうです。そういう事に文句をいうつもりはありません。自衛隊とは「国民の負託に応える」存在であるからです。

しかし自衛隊精神に押し込まれた個人的感傷や、苦悩はどうなってしまうのでしょうか?以前(4月11日のブログをどうぞ)自衛隊駐屯地であった家族説明会でもいわれたのですが、災害派遣が長引いてくるとメンタルの部分で問題が生じてくるとは言われていました。今現在3月11日発生した大震災からもう2ヶ月弱になろうとしています。

そしてテレビでは比較的きれいな災害映像が出ていましたが、実際の被災地の海、といっていいのか水の引かない所には真っ黒になった亡骸がその海を遥か彼方まで埋め尽くし浮かんでいたようです。さながら「黒い海」のようだったそうです。そして亡骸が松の木に折れ曲がって引っかかっていたり、これ以上は書きませんが、映像の何百倍もの悲惨な光景を見る事になった自衛隊や警察官や海上保安官達は、今ちょうどこのストレスが充満した時点なのだと思います。

自衛隊家族説明会では、ストレスは当然の事で、時間の経過とともに半減していくものだと説明を受けました。しかし、このいつまで続くかわからない現状で、時間の経過とはいつからの事なのでしょうか?泣き言を言わないのが自衛隊です。そしてこの悲惨な現状はなんとしても助けなければいけない!それは事実です。

しかし自衛隊員を息子に持つ父は、この長い災害派遣において「息子」の事が心配になってきたのです。そしてこの災害派遣にかかわる父や母、夫、兄弟をもつ家族は皆同じ気持ちではないかと思うのです。

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地上の星-災害派遣における自衛隊の活躍

自衛隊の息子は4月26日に1週間ぶりに駐屯地に帰って来ましたが、1日だけ休んでまた今日は被災地に向いました。
自衛隊に昨年入隊した息子とは1年に片手で数えられるほどしか会えません。

今またこの大震災において被災者の為に全身全霊で頑張っています。
だから時々メールで連絡する事しか出来ない状況です。

しかし、息子は「人を救う」という仕事がしたくて自衛隊に入りました。
だから本望なのです。だから父である私も何も言えません。
息子が退官するまで長生きして息子を待とうと思っています。

息子の現場にはたくさんの悲しみや苦しみに耐えて生きている被災者の人がいるのです。
助けてやってくれ!「頑張れ!息子!」



「大変だろうな、つらいものをたくさん見ただろうな-、お前は大丈夫か、会いたいな、息子よ!」

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アメリカの支援-トモダチ作戦2(ソウルトレイン作戦)

東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県東松島市野蒜(のびる)のJR仙石線野蒜駅で21日、在日アメリカ陸軍と自衛隊によるがれきの撤去作業が始まった。あおば通駅(仙台市)と石巻駅を結ぶ仙石線は、JR東日本ががれきの撤去や線路の復旧に取り組んでいるが、沿岸部の被害が甚大で、宮城県などの要請を受け、米軍が撤去作業に協力することになった。
場所は下図のとおりです。

アメリカ軍は、キャンプ座間(神奈川県座間市、相模原市)の陸軍約­40人で、自衛隊員16人と共に復旧作業にあたった。アメリカ兵40人は駅舎に流れ込んだがれきや割れたガラスなどを手で除去したり、津波で駅舎に流れ込んだ冷蔵庫や自動販売機を運び出しトラックに積み込んでいた。映像はコチラをどうぞ。

自衛隊の16人は、重機操作により、ホームや線路をふさいだ巨木を切­断したり、ホームのがれきを取り除いた。アメリカ軍はこの作戦を「ソウルトレイン」と命名。この名は1970年代に全米を一世風靡した音楽番組”ソウルトレイン”のテーマソングとして作られ、後に日本でも放送され人気を得た番組です。米国と日本をある時期繋いだ曲です。(ソウルは魂、トレインは列車の事)。指揮を執る在日米軍のアラン・ネイランド大佐は「駅は地域社会の人々にとって大切なインフラ。­復旧のために魂を込めて作業したい」と話した。これもまたアメリカの優しさを表した支援だと思います。「ソウルトレイン」のTV映像は次のものをどうぞ。


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