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日本の裏社会~野球賭博

プロ野球巨人の福田聡志投手(32)と笠原将生投手(24)、松本竜也投手の3名が野球賭博をしていた事が判明した。福田、笠原の両投手は麻雀やバカラでも賭けを行っていた事がわかった。

日本野球機構(NPB)の調査委員会は笠原投手が福田投手に紹介した自称税理士法人勤務の知人を野球賭博常習者と認定した。A氏と呼ぶ事にする。


福田投手

A氏仲介のもと今年8月から9月までにプロ野球の約10試合で野球賭博を行い、5月から9月までに高校野球やアメリカ大リーグの試合にも金銭を賭けていた。

笠原投手

A氏との間に昨年4月から10月までにプロ野球の約10試合に賭け、別の野球賭博常習者である飲食店経営者(B氏とする=野球賭博常習者と認定)の仲介で10~20試合に賭けていた。同年4月から8月には高校野球にも賭けていた。


松本投手

この飲食店経営者と昨年の6月から10月までにプロ野球の十数試合に賭けていた。

NBPの調査委員長は「現段階では多球団の選手の関与はなく、八百長行為も認められていない」とし「反社会的勢力との関係も含めて、引き続き調査し、1か月以内に最終報告を行う」という事になった。

しかし巨人はこの賭博に関係したのではないかという疑いがある選手としてまだ次の選手を抱えている。宮國椋丞(巨人軍投手)、江柄子裕樹(巨人軍投手)河野元貴(巨人軍捕手)だ。


この問題はたまたま起きた事件ではない。野球界の歴史をたどっていけば、「起こるべきして起こった」事件なのだ。


野球賭博は昭和40年代初期に大阪に登場した。「胴元」は暴力団が仕切り、客は大阪・ミナミの自営業者や飲食店経営者などが中心で、彼らは大相撲の関取のタニマチになっている人がけっこういた。これは野球賭博がかなり以前から行われ、そのバックに裏社会が関与し、暗躍していた事を意味している。平成22年の相撲界力士の野球賭博事件が新しい。野球界にはその土壌があるという事だ。


野球賭博は暴力団、ヤクザとの一接点に過ぎず、酒席・結婚式の宴席・麻雀・ゴルフ・慈善興業などあらゆる分野で「黒い交際」が行われている。

暴力団は隙あらば表社会の人間に食い込もうと、虎視眈々とその機会をうかがっているのだから。

野球賭博は、平成バブルに突入する頃(1986年)、胴元は約20組織あったといわれ、初めは1000万円程度の取り扱いだったが、やがて1日5000万円、1億、3億と取り扱う金額がどんどん増幅していった。1日に集まってくる客は1組織最低300人。今では携帯電話やメールなどを使って賭場が開かれ暴力団の大きな資金源になっている。

野球賭博は、プロ野球に限らず、春、夏の全国高校野球大会はその筋の稼ぎ時であり、さらに相撲やサッカーのJリーグ、ゴルフなどあらゆるスポーツが賭場の対象となっている。上記のA氏やB氏は仲介役である。その上に胴元がいる。胴元は山口組系弘道会(前身の弘田組時代に野球賭博登場)である事がわかっている。

野球賭博は、勝敗を賭けの対象としているわけだが、賭博である。胴元が試合ごとにチームの戦績に応じてハンデをつけ、それを仲介役に連絡。仲介役はそれを携帯電話やメールで客に伝えて、賭け金を預かるシステムだ。

例えば巨人対阪神の試合を対象にする場合、ハンデは「巨人から1,5」とされたとする。これは阪神に1,5のハンディがついていることを意味する。よって巨人が2点差以上で勝たないと賭博には勝った事にならないという仕組みになっている。このハンデは山口組の中のハンデ師が担当していて、試合によって異なってくる。

                                                           
上記A氏は元中日の立浪和義氏(1988年入団、2010年退団)の知人であり「弘道会の人間である」事がわかっている。

上記B氏は元巨人の越智大祐氏(2006年入団、2014年退団)と見られている。

                                                        


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竹林はるか遠く 最後に

三人が朝鮮を旅立ったころ淑世は38度線を目指して歩いていた。森の奥深くに入っていた為方向がわからなくなっていた。下が急な崖になっている平地まで来ると、下に京城に向かって何キロも伸びている線路が光っていた。それから少し前を見ると歩いている人々が見えた。

すると突然歩いていた人々の向こう側から機関銃の銃撃が始まった。淑世は一瞬動けなくなった。それから崖の上の発砲した方に向かった。人々は罠にはまったのだ!下に見える線路がざわついていた。「みんな死んだ!」朝鮮語を話している声が上まで届いた。「所持品を調べろ。貴重品は全部取れ」と違う声がした。「裸にしろ。金歯をしていたら、歯を引き抜け」彼らは共産主義の兵隊で崖の上に隠れ線路づたいに歩く引き揚げ者を殺し、略奪を繰り返していたのだった。

淑世は山の奥深くに逃げ込んだ。森から離れないように一日中歩いていた。いつしか月日がわからなくなっていた。ある朝目覚めると霜が周りに厚く降りていた。雪が降り始めた。「僕はこれを乗り越え生き延びなければいけない」「母と妹たちに会いたい」「三人とも、苦労しているに違いない」「京城までたどりつかねば!」雪は吹雪に変わった。靴底はボロボロになり服は凍り、そして疲れきっていた。一寸先も見えなかった。

突然吹雪の中、木々の間から遠くにかすかな赤い明かりを見た。淑世は立ち上がった。ひどいめまいを感じ、よろめいたが引きずるように歩いた。明かりの方へ、明かりの方へと。やっとの思いで小さな農家にたどり着くと、そこで気を失い、力尽きて倒れてしまった。

一生懸命読んでくださった方には申し訳ありませんが、あらすじはこれ以上書きません。私はこの本を実際に読んでもらいたいのです。この後、淑世はどうなるのか?日本に向かった母と好と擁子はこの先どうなるのか?淑世は皆に再会できるのか?この辺の部分を私は伝えません。どうか買って読んで下さい。

あの当時朝鮮半島に住んでいた日本人がいかに敗戦という事実により朝鮮人に手のひらを返すようにいたぶられたかをあなた自身で知ってもらいたいのです。日本は1965年の日韓基本条約ですべての戦後賠償は解決しているにも拘わらず、いまだに賠償を求められています。韓国の順法意識のなさにはあきれはてます。

反日教育をしながら、経済面では日韓友好協力などが叫ばれています。

「竹島問題」

「従軍慰安婦問題」

「強制徴用問題」

「歴史の捏造問題」などなど‥

このゆすり、たかり、ヤクザ国家はなんとかできないものでしょうか。

この異常な国の一部を知るだけでも「竹林はるか遠く」は参考になると思います。また、この困難に立ち向かった川嶋家の懸命な「生」への頑張りは生きるどんな人達にも応援になると思います。是非読まれる事をお願いします。もし近くの書店にない場合はアマゾンで購入できます。

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竹林はるか遠く あらすじ 3 船出

軍服を着た三人は京城をめざして歩いていた。擁子の右耳は相変わらずズキズキ痛み、傷ついた胸は軍服に擦れた。しばらくすると日本人らしい男たちがリュックサックと包み、女たちが赤ちゃんをおぶっているのが見えた。母が話しかけここがどこかと尋ねると「遠くに見える茶色の屋根が京城駅です」と教えてくれた。遂に!

いつのまにか三人は避難民の検問所の行列についていた。検問所の警察官がこれからどこに行くのかと尋ねた。母は息子が着くまで京城に留まり戦争が終わったら羅南に戻るつもりだと話した。「戦争は終わった」と彼はいった。私達は驚きのあまり呆然としていた。「いつ?」好は聞いた。「昨日だが、君達は羅南には帰れない。今、朝鮮では、日本人は危険な状況下に置かれている。だから、北からこれほど多くの人達が避難しているのだ」「今日は何日ですか?」また好は聞いた。「8月16日だ。では長崎と広島に原子爆弾が落ちたことも聞いてないのか?」「はい」「日本は負けた」「広島も長崎も地獄そのものだ」突然母が地面に倒れた。

しばらくして母が意識を取り戻した。検問が終わり三人が出発しようとした時、警察官が擁子の怪我の手当をしてやりなさいと言った。屋根に赤十字のマークのついったテントにいた医師は擁子の耳と胸をみて「この子がどうやってここまで耐えてこられたのかわからない。ひどく化膿している」と言った。耳に細長い針金を入れて金属のかけらを抜きだした。母はこれからどうするのかと尋ねられたのでここで淑世を待つと言った。そういうことなら擁子は入院したほうがいいということになり入院する事となる。擁子には母と好が交代で付き添い、付き添わないほうが駅にいて淑世の到着を待っていた。しかし2週間たっても淑世は来なかった。

9月1日医師が母と話した。「患者は全員今月の末までにトラックで釜山(プザン)に向かいます。赤十字船が10月2日にそこから日本に出発することになっているのです。一緒に母国に戻りましょう」しかし母は淑世を待つつもりだと断った。

医師達との別れが来た。皆がひきあげてから三人は駅に戻った。「食料を探してくるわ」と好は言うと空っぽのリュックサックを持ち、ホテルのごみ箱で食べられそうなものを漁りほぼ一杯にして戻ってきた。三人が京城に来て、5週間が経ったある日、好が深刻な事態を知らせた。「私達は京城をでなければいけない。朝鮮人の男達が藪の中へ女の人達を引きずって行くのを見たし、若い女性に乱暴しているのもみたわ」好は震えていた。「女の人たちは金切り声を上げて日本語で助けを求めていたの。今からもう一度私の髪を剃ってくれる?」川で母は私達二人の頭を剃った。それから好をもっと男の子らしく見せるため、ガーゼで胸をきつく巻いた。

「明日の最終の貨物車に乗りましょう」と母は決めた。好と擁子は駅の支柱や木という木に「淑世、釜山へ」と彫った。次の日貨物車の材木の上に乗ることが出来た。三日目に、ついに列車は釜山駅に着いた。駅は満員だった。三人は港の近くの倉庫に行くように命じられた。「私は駅で息子を待たなければいけないのですが」母は朝鮮の係員に話した。「駄目だ!我々はここで独立祝賀会を開く。出て行け!」三人はのろのろと歩き倉庫に着いた。倉庫はいっぱいだった。なんとか隅に隙間をみつけて座る事が出来た。

しばらくして擁子は「お便所にいきたい」と言った。建物の隅に六つの便所があったがドアもなく男女の区別もなかった。擁子の前にいた女性が戸惑いながらズボンとパンツを下ろしてしゃがんだ。母が来て女の人の前に立ってなるべく見えないようにしてあげた。彼女は出てきて戻っていった。すると、突然、助けを求めて金切り声を上げた。振り返ると列の終わりで朝鮮人の男、4人が彼女を捕まえていた。

好のところへ戻ると好も便所へいきたいと言った。母は青白い唇を開いて「胸の包帯はきつく巻いてある?」「好、男の子がするようにするのよ」それ以来、私たちは男の子のように立小便をした。それは悲惨なものだった。しかし身の安全には代えられなかった。その日は悪夢のようだった。独立を祝いながら、酔った朝鮮人が三人の周りにきた。一人が前後にふらつきながら好に執拗にせまった。「お前は男か女か?」「男だ」と好は答えた。「女の声のようだ。触らせろ」「触ってみろ」好は言い返した。

酔った朝鮮人は大きな手を好の胸に当てた。「平らだ」男は言った。「男には興味がない」男たちの集団はさったが彼らは悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちをみつける度に外へ引きずりだした。たびたび女たちの悲鳴が響いた。

母も好もその夜眠れなかった。翌朝は擁子が食べ物探しに行くことになった。擁子はごみをつつきながら一杯になったリュックサックを頭の上に乗せ戻りはじめた。小さな小川で水を飲もうと立ち止まったとき、擁子は泣き叫ぶ声を聞いた。草むらの中で女性の上に乗った朝鮮人がいた。彼女は思いっ切り男を蹴飛ばしながら金切り声を上げていた。擁子の膝が震え始めた。出来るだけ早くその場を離れ、母と好の元へと急いだ。「これ以上ここにいることは出来ないわ」擁子が見たものを話し終えると母はそう決断した。「私たちは日本へ帰らなくちゃ」しかし、母の目は涙でいっぱいだった。「でも淑世が‥。淑世は朝鮮で一人ぼっちになってしまうわ」

一週間後、貨物船がやってきて百人が日本に行く事ができると知らされた。しかし三人は百人に入ることができなかった。百人は去ったがまた次の百人が押し寄せてきた。三人はその場から離れることができなかった。一週間後、船は戻ったが次の百人にも入れなかった。母は群集の中淑世を探し続けた。再び船が見えた。ついに三人は百番以内に入ることができた。朝鮮人の係員のきびしい検査もとおり三人は船に乗ることができた。

海が朝日の色に染まってきらめき始めた頃、船はゆっくりと埠頭を離れた。「ついにやったわ!もう脅えることはないのね」好は、ゆっくりと消えてゆく朝鮮半島をじっとみつめていた。涙が頬を伝っていた。母の顔も涙がこらえられず、ぐしょぐしょになっていた。
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竹林はるか遠く あらすじ 2  兄-淑世

母達が逃げだした時、淑世は、羅南の爆薬工場にいた。淑世の友人正一、誠、眞蔵の三人が便所に消えたちょうどその時突然共産軍が工場に入ってきた。淑世は前にあった空箱に飛び込んだ。級友の泰男が銃をとり発射した。すぐさま共産軍は反撃してきた。ダダダダダダダダ‥。泰男は倒れた。ほとんどが殺され、何人かが捕まえられた。淑世は無事だった。共産軍は捕らえた何人かと出ていった。隊長は「武器を外に出し、この建物は爆破しろ」と命じた。

淑世は何も聞こえなくなったことを確認すると、用心深く箱から出て泰男の体の上を這った。死体だらけだった。吐き気と恐怖におののきながら、便所の戸までやっとのことで行くと、頭で押し明けた。「誠?」淑世は立ち上がった。「正一、眞蔵、誠、俺だ、淑世だ」三つ目の便所の戸がわずかに開いて三人が出てきた。「奴等はここを爆破するつもりだ。一刻も早く逃げるんだ」

共産兵は捕まえた人に銃を向けながら大通りの方へ歩かせている。四人は便所の窓を押し開け、一目散に工場の壁に沿って山の方に向かって走った。それほど遠くへ行かないうちに爆発音が響いた。振り返ると工場が爆発し爆煙が上がっていた。

青年達は家に向かって歩き続けた。夜が明ける頃村外れの竹林の中に建っていた淑世の家に着いた。玄関は壊され、勝手口は開けっぱなしになっていた。共産軍に掠奪されていた。淑世はミシンの上にあった書置きに気が付いた。「息子へ。私達は出発しなければいけません。京城の駅で待っています」淑世は残っていた米や飯盒や下着や靴下、セーターをリュックサックに詰め、すぐに逃げ出したがまた戻って家族のアルバムをしっかりと腕に抱えて家を後にした。

正一の家に行くと眞蔵と正一の両親は南の方へ逃げていたが、誠の両親は殺されていた。日本の学生服ではこの町を逃げることは出来ない事がわかる淑世は家族の友人の李さんのところへ朝鮮服を借りに行く事にした。李さんは朝鮮人だが共産主義者ではない。だがいってみると李さん夫婦は殺されていた。共産軍は同胞の善人をも惨殺していた。「服を借りて、ここから逃げよう」正一が叫んだ。

青年達の歩く旅が始まった。彼らは話さなければいけないときはいつも朝鮮語を使った。共産軍に見つからないように日中は休み、夜間に歩いた。歩き始めてすでに10日がたっていた。日がたつにつれ多くの朝鮮人や日本人、女性や子供が線路を歩いているのが目立ち始めた。年老いた老人が淑世達に日本語で話しかけてきた。そしてその老人から日本が負けたという事と戦争が終わった事を知らされた。

線路を離れ茂みを探しているその時だった。「止まれ!」誰かがへたな朝鮮語で叫んだ。反対側の茂みから二人のソ連兵が銃を持って走ってきた。淑世は朝鮮共産軍の人間だと嘘を言い、日本製の美味しい煙草を差出し端川(タンチョン)の町に行けば、共産軍の本部が安い賃金で労働者を雇っているのでそこで働けば食料ぐらいはもらえるだろうという話をもらった。

端川に着くと共産軍本部で働く事にした。仕事は死体を大きなわら袋に入れて崖から端川湾に放り投げる事だった。それらは列車から投げ落とされたり、野原に置き去りにされたりして死んだ人々だった。一日の労働を終えると煮たキャベツとご飯が与えられた。ここでの仕事が終わると、給料を少し受け取り、さらに南へと歩き続けた。港町の元山(ウォンサン)に着くまで1ヶ月半かかった。もう9月の終わりになっていた。淑世はここで仲間と別れ一人京城へと向かう事にした。淑世は少なくても38°線まで行こうと決めた。一人旅を心細く感じていたがもうすぐ母や姉妹に会えるという夢を抱きながら線路を歩き続けた。

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竹林はるか遠く あらすじ 1

話は1945年3月頃から始まる。主人公川嶋擁子は父が満州鉄道に勤めていた為、一家で朝鮮北部の羅南(らなん)に住んでいた。平和な村だった。父は会社に住込み1週間に一度帰って来るという生活だった為、普段は母と兄の淑世(ひでよ18歳)、姉の好(こう16歳)、擁子(11歳)の4人暮らしだった。

両親はたとえ戦争中であっても擁子に習字や茶道、華道、詩歌の詠み書き、日本舞踊などの稽古を続けさせていた。東京大空襲の事は家族の耳に入っていた。大日本帝国陸軍は軍の病院を拡大する為に力ずくで朝鮮から農地を奪った。朝鮮人達は大日本帝国に統治されていた為に、日本人を嫌い、戦争を快く思っていなかった。

そんな時、擁子は陸軍病院で負傷兵の為の催し物に参加する子供に選ばれていた。当日擁子は日本舞踊を踊った。その中に生きる意欲を失い食事もとらず、治療もさせない人がいた。その人が松村伍長だった。擁子は松村伍長と会話する機会を与えられ、その会話が松村伍長の心を救った。

それから数週間後、傷痍軍人の着物を着た松村伍長が現れた。それからというもの松村伍長はしばしば擁子達の家を訪ねることとなった。

しだいに戦局が厳しくなり、兄の淑世は兵器工場で住込みで働くことになり、出かけていったその夜、突然誰かが戸を叩く音と叫び声が聞こえた。松村伍長だった。「まもなくソ連兵が上陸してきてきっとみなさんを探しにきます。ここに残っていては殺されてしまうでしょう。息子さんには京城(現在のソウル)駅で待っていると書置きを残して下さい。日本人の病人を非難させている赤十字列車(傷病兵輸送列車)が朝4時に羅南を出発します。それにあなた達が乗れるよう私が駅長に取り計らってあります。彼は私の友達なのです」

伍長は擁子の顎に手を触れて微笑むとおでこに唇をあて「君の事を忘れないよ」といった。「私は再び出征するように命令されています」と帰ろうとする伍長さんを擁子は呼び止めた。“武運長久”と擁子が書いた習字の半紙をすばやく巻いて伍長さんに渡した。「ありがとう。自分も皆さんのご無事を祈ります」そういい残して暗闇の中に消えていった。

1945年7月29日真夜中、三人は淑世と父に書置きを残し羅南から脱出した。母は細引きで自分の手首と擁子の手首を結びつけた。「これで絶対に離れ離れにならないわ」続いて好の手首を縛りながら「家の鍵は掛けていくけど淑世は窓からはいれるから大丈夫。あと私達がここを出る事を誰にも気づかれないように。たとえ何があっても駅までは静かにするのよ。わかった?」

三人は駅まで一番近い川沿いの道を歩いた。「静かに」母がささやいた。三人は雑草や小石で体をすりながら急斜面の土手を滑り降りた。「イル(1)、イー(2)、サム(3)、サー(4)」反日朝鮮軍だ。彼らは三人のすぐそばまできていた。「止まれっ!全員川岸まで走れ!敵を殺す訓練をする」敵というのは日本人のことだ。部隊長は三人のすぐ近くで敵の刺し殺し方や身の守り方を説明し、川や溝に死体を引きずり降ろす方法まで教えていた。やがて「全員泳げ」という命令と共に遠ざかっていった。

三人はまた道を歩きはじめた。やっと羅南駅に到着した。駅は日本人の衛生兵や民間医療班や傷病兵でごったがえしていた。朝鮮人の駅長は松村伍長のことなど構わず三人を乗せまいとした。軍医の威圧的態度にやっとのことで女性患者の貨車に乗れることになった。汽車は京城行きだった。貨車の中は死にそうな病人であふれていた。

しばらくして汽車が止まった。看護婦が「共産軍の兵隊達が車内を点検しているのだ!」といった。擁子は衛生兵に血のついた床に投げたおされた。好は横になるように言われ先ほど子供が生まれた女性の胎盤をおなかに乗せられ大きな敷布で覆われた。母にも横になるようにいった。そして血で汚れた擁子のブラウスを脱がせ好と母の顔をこすった。まもなく共産軍が飛び乗ってきた。

「ここにいるのは全員、病人か?」「我々は健康な日本人を探している。中年女性で、16歳と8歳位の少女と、19歳の青年を連れて羅南から乗ってきた者だ。名前はカワシマ」この難は看護婦の機知によりなんとかだます事ができた。また夜が更けていった。突然汽車が大きく揺れて止まった。飛行機が汽車の上を飛んで行った。先頭の機関車が爆破されたのだ。赤十字をつけた列車や船を攻撃してはならないのにだ。

京城から70キロ離れた所だった。共産軍がねらっている擁子たち三人はここで汽車を降り歩く事とした。線路伝いに京城に向かった。夜が明け始めると線路から離れ茂みを見つけ睡眠をとり日中は捕まらないように隠れていた。夕闇が三人を隠してくれるまで待ち、そして再び線路の上を歩きだした。

夜が明けると遠くで飛行機の音がしはじめた。三人は線路から離れて森の中に隠れた。丸1日寝た。目が覚めわずかなご飯を食べ終わった頃、突然3人の共産兵が三人の前に立ちはだかった。「立て、動くな!」と彼らは怒鳴った。共産兵は3人とも好を見ていた。「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」と一人がいった。その言葉が終わるか終わらないうちに、飛行機の爆音が聞こえ、三人の頭すれすれに飛んだ。よく訓練された三人はすぐに、地面に伏せた。ドカーン!

爆弾が近くで破裂した。擁子は気絶した。誰かが乱暴に擁子を揺すったので目をさましたが、擁子の右耳は聞こえなくなっていた。そして胸の激しい痛みと共に血が出ていた。共産兵は皆死んでいた。三人は生きていた。いつしかまた眠りに落ちていた。次の日に起きると好と母の姿に驚いた。好は共産軍の軍服を着、長い黒髪は切り落とされていた。母も軍服を着ていた。母は擁子の髪を剃った。そして擁子にも死んだ共産軍の軍服を着せた。それからまた何日も何日も線路を歩き続けた。
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竹林(たけばやし)はるか遠く  ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著

この本は面白い。読み初めからいきなりひきずり込まれました。苦難が何度もやってきます。どうなるの?どうなるの?の繰り返Take_3

しでどんどん本の世界に入ってしまいます。あまりの面白さに読み終わるとまた、初めから最後まで読みました。そのくらい面白い本です。

この「竹林(たけばやし)はるか遠く」は川嶋擁子氏が1986年にアメリカで出版したもので、もう27年も前に書かれた本です。そしてこの本は翌年の1987年からアメリカの中学校の教材として採用されたそうです。

川嶋擁子氏について少し経歴を書いておきます。

川嶋擁子氏は1933(昭和8)年青森県で生まれで、生後6ヶ月で南満州鉄道(満鉄)に勤務する父に連れられ、家族で朝鮮北部の羅南(らなん)-現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市に移住。家族は父と母、長男の淑世(ひでよ)、長女の好(こう)、そして主人公の次女擁子の5人です。

本の内容は彼女が、1945年7月29日の深夜に羅南を母と姉と擁子の三人で脱出し、数々の苦難を乗り越え日本に辿りつき、京都で暮らし始め、その後、半年位までの体験を書いた自叙伝的小説です。家族と伍長として登場する松村氏は本名となっています。

引き揚げ者の話ですが、あくまで11歳の少女-擁子の目線で書かれた戦争引き揚げ体験談です。

戦争という恐怖の中で家族が力を合わせ、知力をふりしぼり、そして当時わずか11歳の少女がこの状況の中で、恐れず、あきらめず、生き抜く姿は全米中に感動を与える事になりました。この本の英語のタイトルは「So Far from the Bamboo Grove」で1987年からはアメリカの中学校の教材になりました。

また、数々の賞にも輝いています。1998年にはボストン図書館が推奨する児童文学者に選ばれています。

アメリカの平和団体ピース・アビーよりガンジーやマザーテレサ、ダライラマも受賞した「The Courage of onscience

Award(誠実な良心に対する賞)」

「ALA Notable Book(アメリカ自由協会が注目する賞)」

「Parents' Choice Gold Award(親が子供に選ぶ素晴らしい本である賞)」

等多くの賞を受賞しています。

日本に帰ってきた川嶋擁子氏はその後働きながら学問に励み、大学の夜間部で英米文学を学び、卒業後米軍空軍基地で通訳として働きだしました。そして1953年、彼女はアメリカ人パイロットのドナルド・ワトキンス氏と結婚しヨーコ・カワシマ・ワトキンズとなりました。1958年に彼女は彼と一緒にアメリカ、マサチューセッツ州に移ります。それから21年後の1976年から自叙伝を書き始め1986年に「So Far from the Bamboo Grove」を出版しました。

ヨーコ・カワシマ・ワトキンズの日本語版刊行に寄せてより

この本がアメリカで出版されて20年経った2006年の秋、ボストン近郊に住む在米2世韓国人たちが突如怒りを爆発させました。

本書はアメリカで中学生の教材として採用されていたのですが、その内容について、「日本人を被害者にし、長年の日帝侵略が朝鮮人民に対して被害、犠牲、苦痛を与えた歴史を正確に書いていない」「強姦についても写実的に書いており、中学生の読むのにふさわしい本ではない。といった理由をつけて、本を教材からはずす運動をあらゆる手段を使ってやり始めたのです。

さらに、「私の父が731部隊に属していた悪名高い戦犯であり、また慰安婦を満州に送っていた悪者である」といった事実に反することも言い始めました。そこにボストン駐在韓国領事も仲間に加わり、この動きが世界中に広まったのです。


この本の中には、彼女達が脱出して釜山港で船に乗るまでの逃避行の際、なんども共産党の朝鮮人に略奪され、殺そうとされ、強姦されようとする場面が出てくるのです。三人は何とか逃げおうせましたが、強姦され殺される場面を何度も目撃しています。彼らは共産党員ではない朝鮮人にもその刃を向けていました。

この事実は現在の韓国にとってはものすごくまずい証拠なのです。彼らにとっては自分達こそ日本にくい物にされた可哀想な国でなければならないのです。ここからさらに従軍慰安婦があった運動に力が入ることとなりました。

この本はアメリカで原書を読んで感動した人達がまずネットで紹介しだしました。アメリカでは直訳で「竹の森遠く」で出版されています。その噂が日本全土にネットで飛び、それを知った日本人は、韓国がありもしない「従軍慰安婦」でたたく20年も前に朝鮮人による略奪、強姦、殺人が行われていた事実に驚くことになりました。

そんなこんなで待望していたこの本が邦訳されついに日本で発売されました。発売されたのは2013年7月11日(木)です。邦題は本人の希望により「竹林(たけばやし)はるか遠く」となりました。

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日本の裏社会~政治とヤクザ 田中慶秋氏

田中慶秋法務相・拉致問題担当相の辞任が確実になった。これは「週刊新潮」10月18日号の記事が発端となっている。

タイトルは「前代未聞のスキャンダル田中慶秋と暴力団の癒着」だ。もう読んだ読者には申し訳ないが以下抜粋をさせてもらう。

日が傾くと、町は猥雑な相貌を見せ始める。居酒屋、バー、キャバレー、トルコ風呂などが軒を連ねる横浜・福富町。その一角にある高級クラブの店先に、黒いスーツをまとった十数人のいかめしい男たちが整列していた。丁寧に磨き上げられた黒塗りの高級車が一台、また一台と停車し、後部座席から「幹部」らしき人物が降りてくる度、男たちは緊張した面持ちで腰を折る。残照の中、いつしか高級クラブの前の通りには黒塗りの車が行列を成していた。

日が完全に暮れ、街に沿って流れる大岡川にネオンが映える頃合い、高級クラブを借り切って催される宴はすでに始まっていた。主催者はさる大物暴力団組長。参加者は組の幹部、組員だけではなく、普段から組と付き合いのある港湾、建設、不動産関係者の姿もあった。そんな宴の最中「ただいまご紹介にあずかりました……」と、挨拶したのは、田中慶秋議員その人だった。

神奈川県議を長くやった慶秋が国会議員になったばかりの頃だったと思うから、今から30年ほど前の事だな。当時、その暴力団組長は福富町のクラブで新年会とか忘年会をやっていて慶秋はそこに呼ばれて挨拶をしたわけだ。私もその場にいて彼の姿を見たが、挨拶だけじゃなくて、会の最後のほうまでいたはずだ」

振り返るのは田中氏のことを知る暴力団関係者。「暴排条例どころか、暴対法(=暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律、平成3年法律第77号)もまだなくて、ヤクザと業者と政治家が一体になっていろいろできた時代だった。別に慶秋をかばうわけじゃないが、暴力団の宴席に出たといっても30年も前の話。もう時効だろ?」いや、時効どころか、その後も田中氏と暴力団の癒着は脈々と続いた。


上記で書かれている「さる大物暴力団組長」とは構成員5000人を誇る指定暴力団稲川会系の組長だ。田中氏は別の稲川会のたくさんの幹部とも親しかったそうだが、中でも「極めて親密だった」のが三田忠充氏だ。彼はヤクザというだけではなく、神奈川県で一、二を争う右翼団体=菊水國防連合の会長でもあった。

ここでヤクザと右翼団体は矛盾すると思われる方もいると思うので少し説明すると、暴対法が施行され始めた時にヤクザはそのままでいることができずに政治団体である右翼団体に逃げたためである。また一方の右翼団体(=街宣右翼)は日本の事を思う人達の集団ではなく、日本を誇りとする右翼とはこんなに馬鹿げた迷惑なものだよと宣伝する機関だからだ。新宿などに街宣車でのりつけスピーカーでがなる人達は周りの迷惑も考えず完全に日本を貶めている。

話を戻す。そしてこの三田氏とはいったいどんな関係であったかというと三田氏が結婚する際に仲人をしたのが田中議員だった。そしてこの蜜月はかなり続いていて、田中氏が十数年前「女性問題」に関する情報が地元で出回ったことがあった。それを嗅ぎ付けたある右翼団体が田中氏に抗議文を送った。すると三田氏が出てきて「田中議員は俺の媒酌人を務めた人だから、俺の顔に免じてゆるしてくれ」と頼んだそうだ。その右翼団体は三田氏の顔をたて、それ以上動くことはなくなったそうだ。

要するに田中氏やその周辺で何かトラブルが起きると三田氏が登場して処理にあたっていた。が、暴排条例がきびしくなるにつれ、一昨年に田中氏のほうから一方的に、二人の関係を切ろうとし、三田氏が怒り仲違いが起こった。三田氏はその頃すでに持病が悪化していて昨年7月に亡くなってしまった。「最後に裏切った田中氏を恨んでいたのでははないでしょうか」(先の稲川会関係者)

上記のように政治とヤクザは実は深い関係があるのだ。というより政界、財界、裏社会はすべて癒着している。そしてそこには、政財界と裏社会を結ぶ『闇のフィクサー』と呼ばれるどちらにも顔の利く人物がいるのだ。バブル崩壊までは「許永中」(日本名、野村永中-のむら えいちゅう、あるいは藤田永中、在日韓国人。現在服役中)がそうだ。許永中と特に関係が深い議員は自民党の久間章生氏、国民新党の亀井静香氏、新党大地の鈴木宗男氏などが知られる。しかしこういった関係は政治家に限らない。経済界とも、官僚の世界とも繋がっている。

また、政治家とヤクザとの親密な関係でいえば、小泉純一郎元首相と稲川会との親密交際が知られている。小泉氏の選挙対策本部長である竹内清(前神奈川県議会議長)は稲川会横須賀一家の系列組員であり、石井隆匡と非常に親しく、上下関係の厳しいヤクザの世界にあって葬儀で最初に焼香するなど、肩書きこそ堅気という事になってはいたが非常に密接な関係であった。小泉父子の選挙区であり、横須賀一家の本拠地でもある神奈川県横須賀市では、両者の結びつきはきわめて強い。

また、現在野田第3次改造内閣で財務大臣になった城島光力氏も、2009年の衆院選挙の際に、稲川会系暴力団のフロント企業から応援を受けていたことが、「週刊文春」の取材で判明している。城島氏が09年の選挙戦を戦った神奈川10区(川崎区など)には、指定暴力団・稲川会の中枢を占める二次団体・山川一家の本部がある。今回城島氏の応援をしていた稲川会系暴力団のフロント企業には、10月9日に逮捕された山川一家三代目総長・内堀和雄容疑者の親族も役員に名を連ねている。この大臣については問題しされていないが、これでいいはずがない。

暴排条例が施行された現在、政治家の権力を利用し便宜をはかり、見返りに金をもらうという手法も、闇のフィクサーに群がるという手法も政治家にとっては危険極まりない。

しかし今もって裏社会は政治家を必要とし、政治家も実は裏社会を完全に排除することはできないのである。

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妻の「離縁状」-小沢一郎とは何者か?(改訂版)

このスクープを書いたジャーナリスト松田賢弥氏はかなり前から小沢一郎を追っていた。松田氏は2005年講談社出版の『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』の中で小沢一郎の生い立ちを次のように書いている。

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小沢一郎の生い立ち

小沢一郎の父佐重喜(さえき)は1898年(明治31年)水沢の貧しい農家に生まれている。東京に出て人力車を引いたりしながら苦学し、弁護士試験に合格。これ以降佐重喜はずっと東京暮らしをしていた。1924年(大正13年)みちと結婚。みちは千葉県東葛飾郡出身で、東京の九段精華女学校を卒業していた。

佐重喜は東京市会議員などを経て、戦後には衆議院議員に転進し運輸、建設大臣などを歴任した。しかし佐重喜は湯島の料亭で毎晩のように遊びまわる放蕩三昧の日々を過ごしていた。小沢一郎が誕生したのは1942年(昭和17年)だ。

小沢一郎の上には姉が二人いた。長女はスミ子(昭和7年生)、次女は則子(昭和15年生)だ。しかし姉達の母はそれぞれちがっていた。母のみちはこの二人をすぐに養女として入籍している。

水沢に縁のない家族だったが1945年(昭和20年)の初めみちが空襲を逃れて3人の子供を連れて水沢に疎開してきた。佐重喜は東京に残ったままだったのでみちと子供3人の水沢での生活が始まった。

その後、小沢一郎は中学2年生まで水沢に住んだが、中学3年生の時には、みちと3人の子供達はまた東京に戻る事となる。その短すぎる水沢での生活の為、一郎には水沢への郷土愛は生まれなかったと思われる。

また、小沢一郎は生まれてから12歳までを母しか知らず、父の存在を意識する事がなかった事と、愛する姉が父の放蕩三昧の末に生まれた事実が一郎の人格形成に深い影響を与える事となった。

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次に小沢一郎の隠し子をもうけた女性だが、キム・スクヒョン(金淑賢)だ。キム・スクヒョン(金淑賢当時.35)とは2000年、自由党党首であった小沢衆議院議員の国際担当秘書に抜擢され、その後、7年の間、傍を守っている。当時から愛人説も盛んに出ていた。

議員会館に勤めているキムは、国際関係の専攻を生かして韓半島を含んだ国際情勢などに関し補佐する業務を主にしていた。週1回、東アジア情勢の報告をしているし、中国、アメリカを含んださまざまなプロジェクトを企画しながら進行も行っていた。

また、儀典業務は基本で小沢代表を訪ねてくる日本の政治家はもちろん、韓国など外国の名士の接客との通訳も受け持っていた。選挙期間には他の日本人秘書らと同じように全国の現場を歩き回りながら選挙支援にも積極的に出ている。まさに『全天候秘書』だった。この女性との子供が隠し子となっている。

小沢和子氏の「離縁状」の調査中、次の事がわかった。

小沢一郎が関与した西松事件関係者が次々と謎の死

09/01/21 西松建設社長を逮捕
09/01/21 元西松建設専務 死亡
09/02/24 長野知事の元秘書(西松建設事件での参考人) 死亡 。(電柱にロープを巻きつけ首吊り自殺)
09/03/01 「小沢一郎氏と秘書と、ダム工事のただならぬ関係」を追及してきた記者(吉岡元議員) 旅先で死亡
09/03/03 検察、民主党岩手支部家宅捜索
09/03/04 民主党事務所のある相模原卸売市場全焼

まだまだの調査に終わるが次の点ははっきりした。

1岩手県水沢市にはなんの思もいいれもない。

2妻も政略結婚であり、感情の交流はない。

3小沢氏の地元・奥州で30年間選挙支援してきた「水和会」解散。

この男は日本の政治活動において破壊活動しかしてこない。岩手県水沢市の後援者の方々は本当に気の毒でしかたがない。この大震災の中で支援者のいる地域に何も感謝せず、何の手もさしのべない。それどころか、自分可愛さにただ放射能から逃げ回っていた。

皆さん!小沢一郎がどこから出馬しようと日本人なら落としてやろう!この日本に建設的な事は何もせず、ただ害を与える男を!

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韓国の徴兵制度part2

結局、何とかして兵役を逃れようとする人たちは、1か3のケースに適用されようとする。

3の外国籍を持っているケースについて
子供に外国籍持たせる方法はこうだ。子供を外国に行って産んで、韓国とその国(多いのはアメリカやカナダ)の二重国籍にしてから、17歳までに韓国籍を捨てれば、外国籍になり兵役がなくなる。

この方法はある程度のお金があれば比較的簡単に実行できるので、富裕層でよく行われていた。しかし韓国政府もそれを見かねて、2005年に韓国籍放棄による兵役逃れを違法化してしまった。法施行前には、2000人近くが駆け込みで韓国籍を放棄した。それに代わり現在は、在米韓国人との結婚が富裕層に増える事となった。


1の健康上の理由によるケースについて
健康上の理由に該当させる方法はこうだ。医者にお金を渡して「兵役不適応」の診断書を偽造してもらうのだ。

それ以外にも薬によって、徴兵検査時に落とされるようにするやり方も横行している。このための薬を販売する兵役逃れブローカーというものが存在し、1件あたり日本円で数百万円の報酬をもらっているといわれている。

ブローカーの仲介による兵役逃れは芸能界やスポーツ界にも浸透していて、2004年の夏から秋にかけて、史上最大ともいえる規模の兵役逃れスキャンダルが発生した。この時に逮捕されたブローカーが紹介した方法は、徴兵検査で採取した尿に薬を混入することで、腎臓が悪く兵役に行けないと診断されるようにするものだった。

この時には、51人のプロ野球選手が兵役逃れの容疑で出場停止になっている。主力選手が抜けた各チームの試合は迫力がなくなり、事件後の2004年の1試合あたり観客動員数は、事件前の半分以下にまで減ってしまった。

なぜここまで兵役を嫌がる選手が多いのか?それは、2年間も野球から離れることは、選手にとって命取りにすらなりかねないからだ。そして基本的には韓国人には戦争を回避しようという希望がある。

20代はプロ野球選手にとって全盛期とも言える時期で、その間に2年間も離れることは、それだけでも大変な収入減になる。そして2年間も野球から離れると、技能が大きく落ちてしまうのだ。

実際に2年余りの兵役を終えて帰ってきても、入隊前の野球技能を取り戻すのにさらに1~2年かかる。いや、取り戻せればいい方で、最後まで入隊前のレベルに戻れず、そのまま引退してしまう選手も多い。だからこそ、たとえ国家に背いても兵役から逃れようとする選手が後を絶たないのだ。

このような事情は芸能人にも同じだ。だから芸能人にも兵役逃れが多い。芸能人は2年間離れている間に、ファンから忘れられてしまうという恐れが常にある。

2004年の事件で兵役逃れが発覚した代表的な芸能人に、ソン・スンホン(当時28歳)がいる。ソン・スンホンも兵役逃れブローカーから薬をもらって病気に見せかけた1人で、その行為自体は1999年だったために時効で刑事罰には問われなかった。

ソン・スンホンは2000年に主演したドラマ『秋の童話』が大ヒット。韓国でトップスターの仲間入りをした。アジア各国でも放送され、日本でも放送され知名度も上がった。2004年、ドラマ『悲しき恋歌』の出演決定後、兵役逃れが発覚。本人は、これを認めて警察に出頭し2004年11月16日に入隊となった。

ソン・スンホン以外の人気俳優の兵役事情は下記の通りだ。

イ・ビョンホン:母子家庭で扶養家族がいるために免除(デスクワーク6ヶ月のみ)
チャン・ドンゴン:肺に問題があるため免除
ウォン・ビン:2005年11月29日、韓国の徴兵制度により江原道春川陸軍102補充隊に入隊するが、以前から痛めて        いたひざの病状が悪化し、「左側ひざ十字靭帯(じんたい)部分断裂」との診断を受け2006年4月に手術。「兵役継続は困難」と判断されたため、同年6月7日に除隊。
ペ・ヨンジュン(ヨン様):視力が悪いため免除

こういった兵役逃れがあるにせよ韓国は徴兵を止めるわけにはいかない。なぜなら北朝鮮が変わらないからだ。北朝鮮は2012年の4月12日~16日にかけ地球観測衛星を打ち上げると予告している。このロケット発射は事実上弾道ミサイル発射であり、それにより北朝鮮の金正恩体制を国際社会に見せるものであり、韓国への恫喝である。

韓国治安機関では、北朝鮮が核実験や弾道ミサイル発射、さらに武力攻撃などの危険カードを組み合わせて韓国の政治、社会状況の不安定化を煽る戦術を強めるとみている。

実際に有事があるかどうかは韓国がどこまで我慢できるかという問題になっているのだ。今、徴兵制度を吟味している場合ではない。

しかし、当の韓国は、1965年の日韓基本条約でけりのついている本当は無かった従軍慰安婦問題で日本に因縁をつけている。北朝鮮の方向を向いていないでいいのだろうか?

北朝鮮と韓国は是非戦って欲しい。そこから新しい世界が開けるような気がする。


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韓国の徴兵制度

韓国では、男子は19歳になると全員徴兵検査を受けさせられる。満18歳で徴兵検査対象者となり、満19歳までに検査で兵役の判定を受ける。

検査は、心理検査→身体検査→適性分類→兵役処分判定の4段階に渡って精密に行なわれ、医師の診断、経歴や資格などを生かせる適性検査(筆記)をもとに判定結果が出る。

判定が1~3級の者は「現役(現役兵)」、4級は「補充役(公益勤務要員)」、5級は「第二国民役(有事時出動)」、6級は兵役免除者、7級は再検査対象者となる。1~4級判定者は、30歳の誕生日を迎える前までに入隊しなくてはならない。なお、満20歳~28歳で、各種高校、2年制・4年制大学、大学院、師範研修院の在学者、一部大学浪人生は、入隊時期を延期することもできる。

これは国民の義務であり、逃れる事はできない。病気などの正当な理由なしに兵役を拒否すると、1年半の刑事罰が与えられる。実際の軍隊服務期間を「現役」または「補充役」、除隊後の8年間を「予備役(予備軍)」、それから40歳までを「民防衛」と言い、20歳で入隊した場合約20年間の服務義務を全うするのが、韓国の徴兵制度だ。

兵役に行く期間は、目安として陸軍26ヶ月、海軍28ヶ月、空軍30ヶ月となっている。軍隊の中では陸軍が最も規模が大きく、また期間も一番短いため、多くの人は陸軍に入隊する。入隊の時期は19歳から29歳の間で選べるが、兵役を終えていないと就職で不利になるなど社会で「1人前」と見られないため、大学中に行く者が多い。

なぜ兵役があるのかと言うと、韓国は北朝鮮と現在でも「戦争中」であるからだ。朝鮮戦争は終わったのではなく、休戦をしている状態だ。つまり、韓国と北朝鮮は1953年から今までずっと戦争状態である事を意味する。いざ北朝鮮と戦争再開となった時に、いつでも国民が戦える体制を維持する必要があるのだ。日本の自衛隊とは違い、戦争をはっきりと意識した組織なのだ。

入隊すると、過酷な生活が待っている。軍隊なので基本的に全ては命令によって動く。上官からの命令には絶対に服従だ。たとえ殴られても文句は言えない。また訓練も厳しく、何十キロもある荷物を背負って行進したり、汚水の中を泳ぐなどもある。

そして精神的にも辛く、上官からの言葉による暴力やいじめなども横行しているとされている。過酷な兵役生活に耐え切れずに、除隊前に自殺してしまう若者も毎年100人程度いるそうだ。入隊前に育ちが良かった青年ほど、軍隊での過酷な生活には耐えられないことが多いのだ。

また、その若者の人生に及ぼす影響も少なくない。20代前半は「青春真っ只中」であり、その時期に軍隊生活を2年間も送らなくてはいけないのだ。

弊害はいろいろな面で出てくるが、まずは学業面での弊害がある。2年間も学業から離れて軍隊生活を送るので、帰ってくると学力が大きく下がってしまう。スポーツでも、軍隊だから体力こそ落ちないが、技能の方は下がる場合がほとんどだ。

そして何といっても深刻なのが、恋愛面での弊害だ。服役中の2年間は自由に休みを取れることがほとんどなく、恋人にも会えない。だから、入隊前に付き合っていても、入隊時か数ヶ月後に別れてしまうことが多い。そもそも入隊前の男性は「近い将来兵役に行ってしまう」ということが分かっているので、女性も敬遠して恋人ができることが少ない。

このため、さまざまな方法で兵役を逃れようとする若者も多い。韓国人男性で、兵役に行かなくてよいのは主に以下のケースだ。

1.健康上の理由があって兵役が不適当
2.1人っ子で死亡すると家を継ぐ者がいない
3.外国籍を持っている
4.スポーツなどで、特にめざましい成績を達成している
5.高校を卒業していない

4のスポーツの成績では、オリンピックの銅メダル以上や、サッカー・ワールドカップのベスト16以上も兵役が免除になる。

5のように高校を卒業していないと、部隊に送られる兵役はなくなるが、学歴社会の韓国で、この方法で兵役逃れをしようとする人は、ほとんどいない。

2のケースは特別な努力なしに免除されるケースと言える。

だから韓国は日本以上に少子化が進んでいるのだが、日本のメディアはそれを伝えない。

そして、日本の在日に徴兵制度は適用されない。だから在日は帰らない。そして在日は韓国社会では「パンチョッパリ」(半分日本人という侮蔑語)と呼ばれ差別される。
                                                         to be continud 

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