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台湾から日本へのラブレターpart2~台湾映画「海角7号」君想う、国境の南

この映画、一言で言うとラブストーリーです。そしてもっと強烈に「種明かし」をすると、この映画は台湾という国からの日本という国に向けられた愛の告白映画です。

もちろん内容は主人公のファン・イーチェンと日本人の友子(田中千絵)がいろいろな葛藤を経て結ばれるというラブストーリーであります。しかしその話ならそこら辺にいっぱいあるラブストーリーの映画に比べると見劣りがします。

恒春の付け焼き刀のようなバンドは、中孝介のコンサートの前座を務めるべく練習をしますが、たった2曲の曲がうまく演奏できません。本番は迫る、うまくはならないバンドに愛想をつかした友子は激怒し、日本へ帰ろうと荷物をまとめホテルを出て行こうとします。そこに、バンドのメンバーでもある80歳くらいのおじいさん(月琴の演奏者で台湾の人間国宝)が今夜結婚式があるのでそれに出てくれないかとやってきます。

友子は出席することで、帰国は思いとどまり、その夜、おお酔いをしてファン・イーチェンの家に行きます。そして家の窓ガラスに靴を投げたり、扉をどんどんと叩き泣き叫びます。

「なんで私をいじめるのよ!遠く故郷(日本)を離れ異国の地で一生懸命がんばっている女の子をどうしていじめるのよ!」と。

そして酔いが回り道路に寝てしまいます。そこに家に帰って来たファン・イーチェンに見つけられ抱きかかえられて家の中に入ります。友子はファン・イーチェンのベットで寝ています。

そのシーンの間に結婚式に参加した人達が酔いに誘われて海辺にでて月を見ています。その月は60年前の引揚げ船から手紙を書いている日本人に変わります。そしてその日本人は船の甲板に立っています。そしてその手紙が日本語でナレーションされます。

「夕方日本海に出た。昼間は頭が割れそうに痛い。今日は濃い霧が立ち込め僕の視界を遮った。でも今は星がとてもきれいだ。覚えているかい?

君がまだ中学一年生だった頃、天狗が月を食う伝説を引っ張りだして月食の天文理論に挑戦したね。君に教えておきたい理論がもう一つある。君は今見ている星の光が数億光年の彼方にある星から放たれている事を知っているかい?ワー。数億光年前に放たれた光が今僕達の目に届いているんだ。数億年前台湾と日本はいったいどんな様子だったろう。山は山、海は海、でもそこには誰もいない。

僕は星空が見たくなった。うつろいやすいこの世で永遠が見たくなったんだ。台湾で冬を越すライ魚の群れをみたよ。僕はこの思いを一匹にたくそう。漁師をしている君の父親が捕まえてくれる事を願って。友子、悲しい味がしても食べておくれ。君にはわかるはず。君を捨てたのではなく、泣く泣く手離したという事を。皆んなが寝ている甲板で低く何度も繰り返す、捨てたのではなく、泣く泣く手離したのだと」

このナレーションの間中、台湾人が歌う日本の歌がBGMとして流れています。

この映画がヒットした理由はここにあります。たった二人の恋愛に見せながら実は日本という国が台湾という国を愛しているにも拘わらず、泣く泣く手離したのだよ。と語っているのです。これは台湾の人からすると日本からそういわれたらハートを奪われると言う事です。そしてこの映画は台湾映画史上「タイタニック」に次ぐ興行成績なのです。

台湾の人は今現在まさにこの気分なのでしょう。

映画はその後、ファン・イーチェンの家で田中千絵演ずる友子がその手紙を見て「この手紙は大事なものよ。必ず届けて」といい、その言葉でファン・イーチェンはまた海角7号という昔の地名を尋ね、尋ねそして本当のもう年老いた友子さんに届けられる事になります。そしてその老女の顔は映りません。

この映画には、人物はいらないというか、特定した誰かではないのです。そしてその日本に対する恋情にたくさんの台湾の方が共感したということは、それだけ台湾の方が日本を愛して、愛しているということなのだと思います。


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台湾から日本へのラブレター~台湾映画「海角7号」君想う、国境の南

東日本大震災に台湾は200億円もの巨額の義援金を送ってくれた。人口2300万人、平均所得が年約2万ドル(日本円にして約160万円位)ほどの台湾がアメリカと同じ位の金額を贈ってくれたのだ。ありがたいと思うと同時に何故そんなに支援するのかよくわからなかった。台湾の義援金についてはコチラをどうぞ。熱い募金活動の様子がわかります。

これは、1999年の台湾中部大地震で日本がいち早く支援をしたことに対する「お返し」だとか、親日だからとかいろいろ言われました。しかし、そういったお歳暮に対するお返し的発想ではない熱情がよくわかりませんでした。

それを探るべく、その答えを知るかもしれないと思い、台湾でアメリカ映画「タイタニック」に次ぐ興行成績を上げたという映画「海角7号」』(原題:海角七號)をレンタルDVDで見て見ました。この映画は2008年8月に台湾で公開された、范逸臣(范逸臣)と田中千絵主演の台湾映画です。中孝介も出演しています。映像は次のものをどうぞ。

最初に日本語で「友子‥‥」とはじまりますがこれがなんと日本上映用に直したものではないのです。初めから
日本語なのです。これが台湾映画の始まりなのです。

内容は、日本統治時代であった1940年代、台湾最南の町恒春に赴任した日本人教師が、日本名小島友子という台湾人の教え子と恋に落ちる。 第二次世界大戦の終戦の後(1945年)、駆け落ちを約束していた友子を台湾の港に残して、彼はやむを得ず内地に戻る引揚船に乗った。そして、日本への7日間の航海で毎日恋文を書き綴るのです。

見ていない方ごめんなさい。でもこの映画そんな昔の恋愛を描いた映画ではありませんでした。上記の説明は大きな骨の部分であるだけです。日本人教師も、そして友子もはっきりとした映像はありません。意識的にはっきりさせていないのです。それについてはまたあとで。

実際の物語は、1945年から60年後、台湾の恒春(地名)で日本の歌手=中孝介のビーチコンサートが行われる。その前座として恒春在住の人達がバンドを組んで歌うというものでした。バンドのメンバー集めから始まりました。そのマネージャーが、たまたま台湾に行っていたファッションモデルの友子(先の友子とは関係ありません)でした。

ボーカル担当の范逸臣ファン・イチェンは郵便配達員で、その中に海角7号(地名)宛ての郵便物を見つけます。しかしその地名はもう使われていなくてどこへ届けていいかわからず、彼は中を開けて見てみます。それは日本語で書かれていて彼には読めません。

その内容は映画のところどころに散りばめられていて、過去と現在がクロスします。現在の物語ではその郵便配達員と友子(田中千絵)の恋愛が描かれています。そして結ばれた二人。友子はその郵便を読んでしまいます。その内容は60年前の日本人教師の娘が、死亡した父親の遺品から投函できなかった恋文を発見し、台湾に届けようと郵送したものだった。
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福島の英雄達~スペインの「アストゥリアス皇太子賞」

本年度のスペインの「アストゥリアス皇太子賞」(平和部門)を東京電力福島第一原発の事故対応にあたり事故に立ち向かった自衛隊員、警察官、消防隊員が受賞しました。「逆境の中での日本人の勇気と責任感」が世界に認められたのです。

10月21日(木)スペイン北部オビエドのカンポアモール劇場で授賞式がありました。授賞対象となった人は3グループに分かれ、現場対応にあたった東京電力従業員や関連の作業員、原子炉の冷却作業で放水にあたった消防隊員と、原子炉上空からのヘリコプターによる海水散布をした自衛隊員や、高濃度の放射能汚染で立入禁止区域に指定された地域からの住民避難に尽力した警察官の方々でした。

授賞理由は、「彼らは自らを犠牲として、津波による核災害がその壊滅的影響を何倍にも拡大させることを阻止した。自らの身にも深刻な影響がもたらされる恐れも顧みず、彼らは決断を下し、人としての最も崇高な価値を示した」と説明している。

この賞は福島第1原発事故で初期対応にあたったすべての自衛隊員、警察官、消防隊員に与えられた賞ではありますが、代表として東京消防庁から1名、警察官から1名、自衛隊員から2名、福島県警から1名の計5名が出席しました。

皇太子は授賞式で「フクシマの英雄たちの勇気と強さに感銘を受けました。献身的精神は世界の模範であり心から敬意を表します」と述べた。画像は次のものをどうぞ。1

横に並んでいる順に左から東京消防庁の冨岡豊彦消防司令、警視庁の大井川典次警視、陸上自衛隊岩熊真司1佐、陸上自衛隊の加藤憲司2佐、福島県警の渡辺正巳警視です。

冨岡豊彦消防司令は3月18日に現地入りし、福島原発3号機への連続10時間以上の放水を成功させる一翼を担った消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)の司令長です。

警視庁の大井川典次警視(警視庁警備2課課長代理)は3号機への放水を現場で指揮しました。
福島県警の渡辺正巳警視(前双葉署長)は事故発生当時、住民の避難誘導にあたりました。

陸上自衛隊(陸上自衛隊中央特殊武器防護隊長)岩熊真司1佐は、福島第一原発で地上からの放水や除染活動を指揮しました。陸上自衛隊の加藤憲司2佐(第1ヘリ団第104飛行隊長)はヘリからの放水を指揮しました。

5人の代表として東京消防庁の冨岡豊彦消防司令(48)が「フクシマの英雄たちという称号は全日本国民に対するものと確信しています」と述べると、会場から大きな拍手がわいた。

映像がありましたので追加します。

この大災害の中でも、冷静に日本を守った警察官、自衛官、消防隊の皆さん本当におめでとうございます。

そしてこの賞は自衛隊員、警察官、消防隊員だけに与えられたものではなく、この大災害の被災者の一人一人の皆さんのけなげさと気丈さと潔さと献身をも称えるものだと思います。被災者の皆さん、世界中が応援しています。負けないで下さい。

さらには、この栄誉は、被災者達を支えた、名も無きボランティアの方々や寄付をしたすべての方々が示した「人間の善意」に与えられた賞だと思います。

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自衛隊員を救った手紙part2~災害派遣総括

うみちゃんからの手紙全文Photo

「じえいたいさんへ。げん気ですか。つなみのせいで、大川小学校のわたしのおともだちがみんな、しんでしまいした。でも、じえいたいさんががんばってくれているのでわたしもがんばります。日本をたすけてください。いつもおうえんしています。じえいたいさんありがとう。          うみより」

井上旅団長はこの手紙を次のように振返っている。


この手紙を見た時、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。小学校1年生と聞きましたが、『じえいたいさんががんばっているのでわたしたちもがんばります』とか石巻といった地域ではなく『日本をたすけてください』という被害の甚大さを理解した言葉に本当に感激致しました。そして『どんなことがあっても全員を探し出すぞ』という思いがみなぎってきて、この手紙のコピーを旅団の隊員や他部隊に配布させました」

多くの隊員達はそのコピーを手帳などに挟んで、「心」の支えとして持っていたという。その手紙は現在、旅団司令部(香川県善通寺市)の玄関ショーケースに展示されている。動画は次のアドレスをクリックして下さい。画面に映っているのが井上旅団長です。http://youtu.be/m2GCpq9R-jY

そして他の地域の多くの部隊が同じような経験をもっている。宮城県を撤収する時、久納第6師団長(山形県東根市)は「精神的にも肉体的にも極限に達している時があったが支えとなったのは『自衛隊ありがとう』の励ましの言葉だった」とお礼を述べた。

自衛隊が被災者を救っただけではなかったのである。被災者のその気丈な気高さは自衛隊員に元気を送っていたのである。そこにはのちに言われる「絆」が生まれていたのだ。

「自衛隊ありがとう」のコールは被災地の現場だけでは無かった。4月から陸上幕僚監部は陸上自衛隊ホームページで「ツイッター」を実施。陸上自衛隊の活動内容や写真を情報発信したところ1ヶ月で13万人がフォロアーとなった。防衛省や海上自衛隊を加えると約20万人となった。

また応援メッセージを募集したところ、約4500通のメールやファックスが届けられた。また、それぞれの駐屯地にも数えきれない応援と感謝に溢れたメールやファックスが届けられた。これらは「国民の応援メッセージ」として自衛隊員達に配られた。国民と自衛隊との距離がこれほど身近な存在として感じられたのは戦後初といえる。左翼的戦後日教組教育の中で、自衛隊は戦争をイメージさせるネガティブなイメージをつけられていたが、それが崩壊したのである。自衛隊はそんなものではない。自衛隊員の「心」は温かさに満ちているのだ。

しかしでは何故これだけ身近な存在になれたのか?

それは次の2点に集約される。

1、惻隠の情-他人のことをいたましく思って同情する心。これは人の最高の徳である仁に通ずる情の事。

2、献身-自分の利益を顧みないで、他者または物事のために自己の力を尽すこと。

日本人は本来この徳を持っていた。しかしこの日本人らしさは長く表現される事がなかった。東日本大震災では、その徳を自衛隊員だけではなく、被災者達もその徳をはっきりとみせてくれた。私達は日本人なのだ。日本人は日本人らしくあればあるほど徳の高い民族なのだ。

この度の震災は悲惨な、悲惨なものだった。しかしこの悲惨な出来事は私達に日本人の誇りをはっきりとめざめさせてくれた。だから私達が本来の日本人の心を取り戻しさえすれば、必ずもう一段高いレベルの世の中を作れるはずだ。

ここでもう一度宮城県階上中学校の卒業式で読まれた答辞を載せて終わりにしたいと思う。彼の言葉がすでに
すべてを語っている。

梶原裕太君の答辞全文

【階上(はしかみ)中学校と言えば防災教育と言われ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私達でした
しかし、自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私達から大切なものを容赦なく奪っていきました。
天が与えた試練というにはむごすぎるものでした。つらくて悔しくてたまりません。
しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助けあって生きて行くことがこれからの私達の使命です】
詳しくはコチラへ。

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自衛隊員を救った手紙~災害派遣総括

防衛省は8月31日、東日本大震災での自衛隊の大規模災害派遣を終了した。福島県のみ、福島第一原発事故への対応や生活支援の為、東北方面隊が行っている。規模は200人。

派遣された延べ人員約1061万人、派遣期間174日に及び、自衛隊創設以来、最大の災害派遣となった。「史上最大」といわれるその代表的データーをまとめたので次の数字をご覧下さい。

東日本大震災の災害派遣延べ人数

              東日本大震災          阪神淡路大震災

人   員       約1,061万人          約172万人
航 空 機       約49,000機          約8,100機
艦   艇         約4,780隻             約700隻
  
       活動内容
人命救助          19,286人            165人
ご遺体収容            9,504体          1,252体
給水支援         約32,985t        約28,910t
入浴支援        約1,085千人         約515千人
給食支援        約5,005千食           約5千食
道路啓開            約483km            約34km

自衛隊隊員達はまさに被災者の「命」そして「生きる」事そのものを支えてきた。そしてその活動は多くの日本人に勇気と力を与える事となった。自衛隊員は英雄になった。

スペインのアストゥリアス皇太子財団は2011年9月7日、福島第1原発事故の現場で活動を続けた作業員や消防隊員、自衛隊員らにスペイン皇太子賞(平和部門)を贈ると発表した。同財団サイトをみると、「フクシマの英雄たち」が受賞したとして、防護マスク姿の作業員らの写真が載っている。受賞理由は「逆境の中での勇気、任務への責任感や人々の幸福を守る使命感を世界中へ示した」としている。詳しくはコチラへ。

しかしあまり語られる事はなかったが、自衛隊員も人間として苦悩していた。 自衛隊員は皆、疲労困憊の中にいた。多くのご遺体を見るにつけ、そして触れるにつけ、その「心」は何度も折れそうになっていた。それは多くを語らない息子からも聞いたし、仲間の自衛隊員からも聞いた。

中には本人の両親や家族友達が行方不明になったりして、悲しみのどん底にありながら気丈に活動する隊員の話や、心が折れてしまい自殺した隊員もいたとのことだった。こういった話は英雄話の裏で報道される事は無かった。それは被災にあわれた人達への配慮だったのかもしれない。しかし、自衛隊員は皆、心で泣いて、顔で笑って日本を救った。

それは自衛隊だけではなく、警察官も消防隊員も同様だ。そしてその折れそうな心を救ったのが、被災者の方々からの「ありがとう」の言葉だった。中でも自衛隊員に届けられた子供達のメッセージは隊員達の心を掴み、この災害派遣をまっとうする勇気を与えた。

その代表が、全校児童108名の約7割が死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小学校の児童「うみ」ちゃんからの手紙だった。その手紙は当時大川小学校近傍で捜索活動にあたっていた第14旅団(香川県善通寺市)第14戦車中隊の隊員に渡され、その日のうちに井上第14旅団長へ報告された。その手紙は井上旅団長を感激させ、すぐさまコピーを旅団の隊員や多部隊に配布する事となった。
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「ありがとう」自衛隊-第10師団宮城から撤収

5月23日(月)宮城県南部の4市9町で災害支援活動を行なって来た陸上自衛隊第10師団(名古屋市)が一部を除いて帰隊することになり、主な活動の舞台になった名取市、岩沼市、亘沼町、山元町で、お別れのセレモニーが開かれました。山元町でのセレモニー映像は次のものをどうぞ。(画像は消されてしまいましたので削除します)

第10師団は震災直後から被災地入し、最大3800人が移動日を含め75日間派遣され、延べ動員約22万人、給食は約34万2千食、給水は約3900トン浴場利用者は9万9千人に達しました。

山元町では午後3時40分から山元町役場前でセレモニーが開かれ、感謝の横断幕を手にした町民ら約千人が詰めかけ、約40台の自衛隊車両を「ありがとう」の言葉と共に盛んに手をふって見送った。

この大震災にあたり懸命の救援活動にあたってくれた自衛隊の方々に心から感謝をするとともに、別れのほろ苦がさを感じるものであった。

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菅総理による日本解体-福島原発事故

福島第1原発事故について、事故対策統合本部事務局長の細野豪志首相補佐官は5月16日に1号機で炉心の完全溶融=全炉心溶融(メルトダウン)が起きたと述べました。そしてそれは2号機でも3号機でも「あり得ると考えている」との認識を示しました。

しかし、全炉心溶融(メルトダウン)については3月12日午後の原子力安全・保安員の会見で中村氏がすでに福島第1原発1号機で「全炉心溶融(メルトダウン)が始まっている可能性が極めて高い」と発表しています。その為か原子力安全・保安員の会見は別の人に変わってしまいました。3番目の西山氏が現在は会見しています。この最初の時点でメルトダウンが認識されているのです。

5月16日の会見でも原子力安全・保安員の班目春樹(まだらめ はるき)氏の会見で3月下旬の時点で、1号機だけでなく、2号機と3号機も炉心溶融の状態にあるとの認識を明らかにしていました。映像は次のものをどうぞ。

そして東電の3月11日のホワイトボードに記入された内容は、もうその時点で最終局面である事を伝えています。しかし、その間、菅総理や枝野官房長官、原子力安全・保安員の西山氏はそれほどの危険にはまだ至っていないと会見していました。何故、心配の少ないほうにわざわざ言い換えたのでしょうか?一方、日本を心配したアメリカはこの時点で原子炉冷却に関する技術的な支援を申し入れたのにも拘わらず、政府は断っています。(それについてはコチラへ)何故その支援を黙って受けなかったのでしょうか?そしてこの頃、海外からは盛んに日本は情報を発信しないと言われていました。

しかし、政府の流れはいまだに最終局面には至っていないという方針で、自衛隊機から福島第1原発、第1号機にピンポイントで水をかけるだの、騒乱の時の為の警察放水車で水を撒くだの、自衛隊放水車だの、東京消防庁のハイパーレスキュ-隊を呼び放水作業にあたらせるだの、中国からもらったコンクリート注入車だのをもってきて放水をしだしました。それもわざわざ効果的でなく危険な方法からやり初め、それを担当した人達を敢えて危険な状態にさらす事になりました。そして時間をのばしました。3月11日の時点で最終局面であることを知っているのですから、初めから無駄なのです。その方向ではないのです。絶対にメルトダウンしていた事は知っていたと思います。

そうこうするうち、放射能はしだいしだいに拡散し事態はさらに深刻化していきました。

   『菅総理にはこの事態を出来るだけ早く収束させる気があるのでしょうか?』

菅総理は元々社民連などを渡ってきた社会主義系の市民運動家で、反原発の人です。

だからもし、この機に乗じてこの福島原発事故を長引かせ、世界に向かって原発の悲劇を見せているのだとしたら。原発で事故があればこんな酷い事になるんだよという様子を世界に見せようという悪意が少しでも顔をのぞかせていたら。

もし、そういう意図なら浜岡原発の突然の中止も納得がいきます。菅総理は原発反対の市民運動家なのですから。その地域は特に危険な地域とか理由をつけていますが、別のところでも突発的災害が起これば同じではないですか?ようは今浜岡原発を止めれば首都圏にさらなるダメージを与える事ができるからだと思います。

菅総理はバリバリの市民活動家であった事を忘れてはなりません。彼は日本国旗にさえ嫌悪を抱く人だったのです。もしまだそんな人物なら自分の手で日本を破壊する絶好のチャンスが彼の目の前に現れたのです。果たして
そんな政治家が政権をとったからといって、国民の幸せを一番に考え、国の為に働く政治家に、簡単に生まれ変われたのでしょうか?もし、生まれ変われたのなら、この震災にあたり何を一番にすべきか、おのずとわかるはずです。そしてこの2ヶ月は無駄な努力にはならなかったはずです。

この菅総理の「思惑」の為に日本人はたくさんの人達が犠牲となりました。自衛隊しかり、警察官しかり、消防隊員しかり、そしてやっと地震から逃れ、津波の惨事から生き延びた飯館村や川俣町の人々しかりです。彼らを避難と称して地域から出しているのです。避難の為に出て行く飯館村や川俣町の人々の目には涙が流れていました。どこまで国民を泣かせれば気がすむのでしょうか?

そして一刻も早く収束せねばならない原発事故にも拘らず、はやばやと6月22日に国会を閉じる事を明言してしまいました。第二次補正予算は8月以降だそうです。それでいいのでしょうか?メルトダウンを起こしている原発を抱えて国会が開いていないのであれば、その間の避難民の気持ちはどうなるのでしょうか?また、原発の突発的事故の対応にも遅れる事となるわけです。

そしてはじめから「日本解体がねらいなら」まさに大成功なわけです。

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永すぎた春

自衛隊の息子はこのたびの震災支援の為に、5日被災地での捜索活動を行い、5日目の夜に帰ってきて、翌日が休み、そしてまた次の日から被災地に行って仕事をするという日々を送ってきました。

このブログを初めの方から読んで下さっている皆さんはわかると思うのですが、息子は去年平成22年12月14日に幹部候補生学校を卒業したばかりで(詳しくはコチラへ)やっと赴任地に着き少しその土地柄や人間関係になれたかなというまだ自衛官と呼べるようなものではありませんでした。

息子は幹部候補生学校においては最年少であり、また足も遅く、仕事ものろく、よく叱られ、出来ないと校庭を走らされていたそうです。朝おきても服装を整えるのが遅いと言われては走らされ、靴が磨けていないといわれては走らされていたのです。隊は5人編成で息子は大学卒で入学しましたが、ほかの隊員は皆、防衛大学卒業でそのあたりは慣れたものだったのです。

そして校庭を走り終えた息子は、シャワーを浴び着替えてやっと食堂に行くともう片付けられていて、何度食事を食べないで、授業に行ったかわからないという状態でした。それでも回りの隊員達からは「やつはノロマなんだから」と言われ、構われもせず、助けられもせず、とうとうメンタルへルスの教官に泣きながらその惨状を訴え、なんとか、授業が始まってから講師が「○○君、食事がまだなら食べてきていいよ」といってもらえるようになったそうです。

幹部候補生学校時代は本当に忙しそうで電話1本かけられず、メールでどうにか最低ラインのコミュニケーションが取れていたというかんじです。息子は中学生時代から自衛隊にはいりたがり、防衛大学によく受かる高校という事で志望校も決めていました。そしてその為に進学クラスであるにもかかわらず、柔道部に入り勉強との両立をめざしました。(剣道は小学校からならっていましたが)

しかし、柔道部の練習はきつく、成績の方が少しずつ下がってしまいました。その結果、防衛大学は不合格、公立大学は合格したので、在籍のまま翌年も防衛大学を受験、それも不合格、そしてその翌年も大学に入りながら防衛大学を受験するもまた不合格、大学3年に猛勉強をしてようやく一般大学から合格する事ができたのでした。その為に、ほとんど勉強づけの日々を送る事になりました。しかしその為に運動不足を起こしていたのです。

当時、幹部候補生学校のその苦労を聞いて知っていた私はただ胸を痛め、眠れぬ心配な夜を過ごすだけでした。私自身、息子の運動神経の悪さはよくわかっていましたから。ただそれを克服しなければ自衛官として任務を全うする事はできないとも、遠い頭のずっと先のほうでは思っていました。しかしそう思いながらも私はただの親馬鹿で息子の事を心配するばかりでした。

しかし、息子は幹部候補生学校では4回の筆記成績があるのですが1回目と4回目は成績順位は発表されなかったのでわかりませんが、2回目は全隊員356名中、10位、3回目は4教科試験の内2教科で1位という快挙をなしとげました。でも特殊部隊やレインジャー部隊のある自衛隊ではそれほどの評価は得られなかったそうですが、私はいつも「よく頑張った。えらい!えらい!」と思ってしまいます。もしこのブログを読んでる幹部候補生学校にはいったご子息、また現在幹部候補生学校にいってらっしゃるご子息をお持ちの親御さんはどのように感じるかわかりませんが、もし気にさわるようならすみません。

そして赴任をして3ヶ月目位の3月11日に東北関東大地震が起こりました。そして、その為その日の内に派遣の準備をし、次の日から息子は被災地に向っていきました。

息子は赴任してからは駐屯地内で寝起きをしていましたが、幹部として3月19日には営内から出て暮らす予定になっていました。それが震災の為に営内からはでられず(もちろんそれを批判しているわけではないのです)連絡さえ取れなくなりました。人としては被災者の悲劇に涙しながら任務をまっとうしてもらいたいと思い、父としては息子ひとりを心配していました。

その息子からきのう連絡があり、被災地への支援は1週間行き、次の1週間は休みというふうにシフトが変わったという事と、今月末から営外の官舎に住めるという嬉しい知らせがありました。震災対応もようやく少し余裕が出てきたようです。

我が家にもようやく春がきたような、安堵感と幸せをやっと感じる事ができました。
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大震災, 自衛隊 |

福島第一原発内部映像-青山繁晴氏撮影

独立総合研究所の青山繁晴氏が4月22日に福島第一原発の内部にはいりました。その事について民主党の細野豪志氏、内閣府副大臣・末松義規氏が青山氏に圧力をかけてきたそうです。その情報は関西テレビの「アンカー」で話なされました。1番から3番までが関西テレビ「アンカー」映像です。直ぐ消されますのでまだ見ていない皆さんはお早くご覧下さい。(アンカーは削除されましたのでこのブログからも消します。失礼します)


4番からは青山繁晴氏撮影映像です。福島第一原発内部を是非ご覧下さい。中で働く作業員の様子やその方々の決してあきらめていない様子、冷静感、使命感は歴史に刻まれる出来事だと思います。 

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在日ミャンマー人が被災地でボランティア

5月5日首都圏などで暮らすミャンマー(ビルマ)難民ら95人が、宮城県多賀城市、石巻両市で、清掃に、炊き出しに汗を流しました。「国籍や肌の色は関係ない」 「たくさんの人の幸せが流されてしまったんですね」と、つぶやくミャンマーの男性。自身は難民認定の申請が認められず、先の見えない日々に苦しみ、耐えがたい孤独も抱えるが、「自分の悩みが小さく思える。もっともっと頑張らないと」と語ります。

呼び掛け人の一人、チョウチョウソーさん(47)は来日20年。弾圧を逃れ、来日。難民認定を受け、今も母国の民主化運動の先頭に立ちます。将来への切実な不安を抱える被災者の姿が来日直後の自分と重なり、日本での生活を一から切り開く中で何度も励まされたことへの恩返しを込めて、支援を呼び掛けています。「難民となって故郷を失い、今も母国に帰ることはできない。家族とも生き別れた。そんな境遇に身を置く自分たちだからこそ『被災者のためにできることがきっとある』と思う」、と語っています。

ボランティアに参加した男性ポン・ラインさんは「日本人の方が何か困っていたら、私達の方が何かやるべきである。日本は一人じゃないからね」と言い「私達もいるからね」と涙ぐんで話していました。その涙の奥には祖国から迫害され、日本で暮らさねばならない悲しみと、その中でも日本人に励まされ生きてこれた日本に対する感謝と、その心優しい日本人が苦しんでいる事への慈しみの涙であると思いました。

中国、韓国を除くアジアの人々は日本人の為に泣いてくれるのです。そんなアジアの人々を私達は決してわすれてはいけない。1日でも早く復興し、一回りも二回りも大きくなった日本は、今日本を思い一緒に泣いてくれる、世界の人の為にまた頑張りましょう!

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